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2017年9月15(金)
【通読】
マタイの福音書 19:1-12
1イエスはこの話を終えると、ガリラヤを去って、ヨルダンの向こうにあるユダヤ地方に行かれた。2すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをいやされた。3パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、5『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。6それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」7彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」
8イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。9まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。{そして離縁された女を妻とする者は姦淫を犯すのです。}」10弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」11しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。12というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」
【ポイント】
①問題は「離婚」ではなく「結婚」
この箇所を読むと、イエス様が「相手の不貞以外での離婚は罪」「互いに最後まで愛し合う約束ができないのであれば結婚するべきではない」と教えられていることが分かります。私たちクリスチャンがこのイエス様のみことばから学ぶべきことは、結婚とは敢えて大変の人生を歩む決意をすることであることを学ぶべきです。
多くの人は「幸せな生活」「楽しい人生」を期待して結婚をすることと思います。しかし、結婚を願う人全員が知らなければならない事実は、結婚の祝福は互いの多大な自己犠牲の結実であるということです。例えば、独身時代の自由なお金の使い方、時間の使い方、物の所有の仕方を新しい家庭のために諦めるというような事の積み重ねの先に、幸せな結婚生活が待っているのです。もちろん、自己犠牲には大きな痛みが伴いますが、キリストの十字架を覚える時に、自己犠牲は「いやいや」ではなく「喜び」となるのです。イエス様は結婚とはそのような性質のものであることを明らかにされ、当時のユダヤ人の中で共有されていた結婚観を持っていた弟子たちは思わず「「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」(10節)と叫んでしまったのです。結婚とは、信仰的にも、人間的にも成熟した者、もしくは、そのような成熟を熱望している者に与えられているものなのです。
ここで重要なことは、当時のユダヤ人達が先に述べたような結婚に関する神様の御心を理解せず、夫は妻が気に入らず、別の女性と結婚したければ、今の妻を離縁すればよいというような、神様の御心とは全く違う結婚の教えがまかり通っていた事です。つまり、イエス様の教えの中心は「離婚の可否」ではなく、「結婚のあり方」にあるのです。
「嘘をつくこと」(マタイ19:18-19)が罪であるように、「離婚」も罪であり、神様の御心ではありません。しかし、残念ながら弱い私たちは罪を犯してしまうことがあるのです。そこで大切なことは、罪を隠すことでも、罪を罰することでもなく、罪深い私たちが、どのようにしたら神様の御心に適った結婚生活を送ることができるのかを考えることなのです。
ライフチャーチ
大谷信道