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2023年9月15日(金)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 1:26-29 26兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。28また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。29これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
①イエス様の福音にしっかりと留まる 繰り返し学んでいることですが、イエス様の福音にしっかりと留まること、イエス様の十字架を信じ続けることは、イエス様を信じることが唯一の救いの方法、唯一の天国に行く方法であること信じ続けることではありません。そのように教える牧師が多いと思いますが、私はそれでは、説明が不十分であると強く感じています。なぜなら、「イエス様の十字架」とは「神様の私たちに対する愛」に他ならないからです。イエス様の福音を正しく理解している人は「イエス様の十字架」という言葉を聞くときに、神様の私たちに対する愛の行為を覚え、神様の愛を実感するのです。
しかし、イエス様の十字架の福音を、自分の救いのための方法として頭で理解している人は、知的好奇心というある種の欲求を満たしているだけなので、一度満足しても、再び欲求不満を覚え、新しい教えや知恵を求めるようになってしまうのです。そのような状況のなかで、牧師も信徒を飽きさせないように手を変え品を変えたメッセージを作ることに心血を注ぐことになってしまいます。または、牧師自身が知的好奇心の虜になってしまい、シンプルな福音(神様の愛と恵み)のメッセージを語ることに飽き、ある人は神学的な深さ、ある人は心理学的、ある人はカルト(オカルト)的な領域に興味関心が移っていくケースも少なくありません。パウロは、人々が福音の本質でないことに熱心に取り組んでいる典型的な姿を「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。」(1:22)と表現したのかと思いますが、現代ではさらに多岐にわたる「しるし」や「知恵」の追求がクリスチャンの間で広がっているのだと思います。
1章17節の「17キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。」というパウロのことばを再度しっかりと受け止めましょう。
この状況を変えるために一番大きな責任を負っているのは牧師、宣教師などの伝道者です。何度となく引用している箇所ですが、2テモテ4章2-4節のパウロのことばをしっかりと受け止めたいと思います。
2みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。3というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、4真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
ライフチャーチ 大谷 信道