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2022年9月20日(火)
ローマ人への手紙 2章23-27節 23律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。24これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。25もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。26もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。27また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。
【ポイント】 ①律法の行ないで完全になることは不可能 人間が神様の前で完璧に正直になったきの結論は、律法の行ないにおいて完全になることは不可能であるということです。反対に神様も自分のごまかして生きている人は、または、自分が律法を完全に守ることができると勘違いしている人は、この結論に達することができないのです。
ここに、律法の存在理由があるのです。なぜなら、律法を本気で守ろうと取り組まない限り(神様の前で完全に正しい人間になる努力をしない限り)、私たちは心のどこかで「自分はまあまあ良い人間だから、天国には行くことができるだろう」という、まったく見当違いの信仰(宗教観)を持つようになってしまうからです。しかし、自分の罪深さについて、精神的におかしくなってしまうぐらい真剣に取り組んだ人は、自分は絶対に神様のまえで正しいものだと認められる可能性はないことに気が付くのです。
このことに気が付かない人は、つねに「律法主義的」「因果応報的」な信仰の中に生き、自分の良い行ないの対価として神様からの祝福を受けることができると勘違いをし、そうでなかった場合の「罰」におびえながら、生きて行くことになるのです。多くの宗教は、この人間の不安につけこみ、不安を原動力にさせて、金銭的な利益を得ようとするのです。人々も、善行(努力)やお布施(お金)で神様からの祝福を受けようとする様子が、「砂糖に群がるアリ」「目の前にニンジンをぶら下げられた馬」と変わらないことに気が付かないのです。
自分の罪深さを直視した人は、生きる意味、自分の存在価値の無さに絶望し、生きる望みを失うことになると思っています。このような状態は、この世では「病気」とされてしまうことでしょう。しかし、決してそうではないのです。この事実から目を背け、逃げている状態こそ以上なのです。アルコールや薬物による酩酊状態と同じかもしれません。
もし、自分の罪深さに直面した時の絶望から救われる方法がないのであれば、酩酊状態のまま、自分をごまかして生き続けるほうがましだと思うことでしょう。しかし、そこには救いと希望があるのです。それは、神様の愛です。このような哀れな存在である人間を神様は愛してくださるのです。神様の愛、あわれみ、恵みが用意されてるからこそ、私たちは自分の罪深さを直視することができるのです。そこには、良い人間にならなければ救われないという不安や恐れはありません。自由があるのです。
逆説的なのですが、私たちが神様の愛に気づき、自由にされるために、律法は必要だったことになるのです。
ライフチャーチ 大谷信道