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2017年9月21(木)
【通読】
マタイの福音書 19:25-26
25弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」26イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
【ポイント】
①難しく考えない
神様は、ご自分を愛する者を祝福し平安を与えられ、決して見捨てられることはありません。長い人生の中では、あたかも神様から見放されてしまったと感じるような状況に陥ることもありますが、神様は愛する者を見捨てることはされません。これが聖書に記されている神様の約束です。
この青年の問題は、神様のために財産を捨てることができなかったことですが、その確信は救い主であるイエス様のみことばに従うことができなかったことです。つまり、「財産への執着」という精神論的な観点からの問題ではなく、イエス様のことばを信頼し、従うことができなかったという、イエス様との関係性(愛の関係)に問題があったのです。マタイ6章24節のイエス様のことばを思い出してみましょう。「24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
さらに、イエス様はご自身の経験から、一般論として「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(24節)と教えられたのです。つまり、持っいるもの(財産、家柄、地位、学歴など)が大きい人は、それらを手に入れるのに苦労した分、それらを捨てキリストを愛することを人生の優先順位の一番目にすることに難しさを覚えるということなのです。
ですから、ここで最も大切なことは「捨てること」ではなく、「キリストを愛すること」なのです。キリストの愛の価値を本当に理解すれば、自分が大切にしてきた財産、家柄、地位、学歴などが全く無価値なものであることに気づくようになるからです。ここに救いがあるのです。キリストの愛の価値を知る時に、絶対に救われないと思われるような「金持ち」も救いにあずかることができるのです。イエス様の「しかし、神にはどんなことでもできます。」(26節)のことばはそのような意味だと思われます。まさに、その体験をした使徒パウロの証しに耳を傾けてみましょう。
ピリピ人への手紙3章4-9節
4ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。5私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、6その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
ライフチャーチ
大谷信道