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2023年9月21日(木)
【今日のみことば】 コリント人への手紙第一 2:3-5 3あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。4そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。5それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。
①人間の知恵でははく、神の力にささえられる パウロは、今日の教会・クリスチャンにもそのまま適用することができる極めて重大な問題を提起しています。それは、クリスチャンが「説得力のある知恵のことば」を求め、「人間の知恵にささえられ」ているという問題です。
現代の教会においても毎週の礼拝で「説得力のある知恵のことば」を求めるクリスチャンが多いのです。牧師の説教が「説得力のある知恵のことば」であると感じた時に「今日は大きな祝福を受けた」と感じるという、パウロが考えている礼拝や宣教とは全く違う現象が起きているのです。このように書いている私自身も長い間、牧師の説教に説得力、迫力、感動などを求め、そのような特徴を持っていない牧師(その説教)は退屈でつまらないものだと思っていました。他にも、ある人は牧師の説教にアカデミック(学術的)な「知恵」を求め、ある人は日々の生活にすぐに生かせるような優れた適用(アプリケーション)を求め、ある人は説教の中の練られた例話に感動、笑い、感心を求め、ある人は牧師の説教に神がった雰囲気を求めたりと、人々が牧師や説教に求めるものは様々あるように思います。しかし、それらの多くが「説得力のある知恵」であり、非常に肉的なものであると感じるようになってきました(これは、あくまで私個人の考えです)。
私たちクリスチャンは、私たちの心を本当に動かし、満たすことができるのは「イエス様の十字架のことば」だけであることを、確認し続けることが重要です。もっと具体的に言えば、イエス様の十字架によって明らかにされた神様の愛を知り、神様の愛を受け取り、神様の子として受け入れられていることに日々満足と心の安らぎを覚えていく必要があるのです。この満足と平安を人間、または人間のことばに求めてはならないのです。
神様の愛は私たちの心に満足と平安を与える性質の愛です。神様に愛され、受け入れられ、認められている事実を事実として受け入れるときに、私たちは他人の目、他人との比較などから自由にされます。様々な不安やイライラから解放されます。満足、平安、自由を覚えていない人は、その問題の根源は、神様の愛を信じていないことにあることを知りましょう。多くの人がこの問題の解決策を「人間の知恵」に求め、牧師たちも「人間の知恵」を提供することに必死です。パウロのことばを通して、その取り組みが、全くの的外れであることに気づこうではありませんか。
ライフチャーチ 大谷 信道