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2022年9月23日(金)
ローマ人への手紙 3章1-2節 5しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。6絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。7でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。8「善を現わすために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
【ポイント】 ①「イエス様の恵みが腑に落ちない」という大問題 「律法の行ないによって義とされる」という教えが刷り込まれていた当時の律法学者、パリサイ人たち、一般のユダヤ人、さらにユダヤ人クリスチャンだけでなく、実は日本ではクリスチャンを含む、現代の人々の心の中にも「律法主義」が刷り込まれているのを強く感じます。それは、一般的に仏教的な思想として「因果応報」という教えが受け入れられていたり、「練習は嘘をつかない」というスポーツ選手や音楽家などの経験に影響を受けているのかもしれません。つまり、「楽をして望んでいることを手に入れることは悪である」という感覚が刷り込まれてしまっているのです。
ですから「律法の行ない(戒律の実践)によって神様から認められ、天国に行くことができる」という教えが真理ではないかと感じている人が多いのです。ですから、「信仰によって義とされる」というイエス様の福音は、どこか「偽物」「いい加減な教え」「都合の良い話」に聞こえてしまうのです。残念なことに、クリスチャンの中にもその感覚を捨て去ることができない人がいるので、「頑張った人がより多くの祝福を受ける」というような、律法主義的な教えがいつの間にか入り込んでしまうことがあるのです。
この問題の根本的な原因は明確です。それは、人々が宗教(人間の教え)に熱心になり、「神様との愛の関係」の大切さを忘れてしまうことです。「愛」が欠落した状態は、家族にたとえると「良い夫(妻・親)を演じる人」「良い子どもを演じる人」となるでしょう。「愛」がなければ、「家族ごっこ」「家族のふり」に一生懸命取り組むだけになってしまうわけです。そのような家族の姿が、愚かなことであることは誰にでも分かるわけですが、神様との愛の関係が抜け落ちた「宗教ごっこ」に熱心に取り組んでいることには気づかないのです。これは、大変恐ろしい現象ではないでしょうか。
イエス様の福音は非常にシンプルです。「4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:4)イエス様の福音を、愛の抜け落ちた宗教に変質させてしまってはならないのです。
ライフチャーチ 大谷信道