デイリーディボーション 9月24日(火)

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デイリーディボーション 9月24日(火)

2019年9月24日(火)
ピリピ人への手紙 1:15-19 15人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。16一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、17他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。18すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。19というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。
【ポイント】 ①この世的な「成功」への誘惑 グループの指導者(メンバー)の、自分たちの支持者をより多く集め、より多くの富、名声、権力を手に入れたいという欲望が「党派心」です。この誘惑を覚えていない牧師という牧師はほとんどいないのではないかと思います。「一人でも多くの人を救いに導きたい」という純粋な思いの陰に、「より大きな教会の牧師となりたい」という、この世的な「成功」を密かに願っている牧師は少なくないのです。
今日の箇所から、このような誘惑に負けてしまった牧師(宣教師)が使徒パウロの時代に、存在していたことが分かります。使徒パウロが多くのクリスチャンから信頼され、使徒として認められていることに妬ましさを覚えたり、使徒パウロが伝える純粋な福音とは別の自分なりの福音によって、パウロよりも多くの信奉者を集めたいと思っている人たちがいたのです。
一方、パウロがこの世的な成功に全く興味をもたず、純粋な思いからイエス様の福音を伝え、健全な教会形成に取り組んでいたことも今日の箇所から明らかです。間違った福音が教会の中に入り込んでしまうことには、最大限の注意を払わなければならないことを教えつつも、18節では「見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。」と語っているのです。つまり、指導者に問題があったとしても、その働きの結果としてイエス・キリストを信じ、救われる者が増やされることを喜んでいるのです。
しかし、それは不純な動機から福音宣教を行っている人々を肯定しているわけではないと思われます。ヤコブも「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」と教えている通りだからです。パウロ自身も2コリント5章で「10なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」と教えています。
つまり、この世の価値観、この世の成功観によって生きる人は、さばきの座でその不純な動機についても明らかにされるからです。
ライフチャーチ 大谷信道


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