デイリーディボーション 9月24日(金)

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デイリーディボーション 9月24日(金)

2021年9月24日(金)
マタイの福音書 10:9-15 9胴巻に金貨や銀貨や銅貨を入れてはいけません。10旅行用の袋も、二枚目の下着も、くつも、杖も持たずに行きなさい。働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。11どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。12その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。13その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安はあなたがたのところに返って来ます。14もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。15まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。
【ポイント】 ①イエス様の戦略を理解する その3 なぜ、イエス様は弟子たちに十分な旅支度をさせなかったのでしょうか?あえて、困難な道を通らせることによって弟子たちを成長させようとしたのでしょうか。
ヒントは、聖書自体にあると思われます。ヘブル人への手紙13章1-2節を見てみましょう。「1兄弟愛をいつも持っていなさい。2旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」これは、創世記18章でアブラハムが旅人に見えた御使いをもてなした場面です。ここから推察できることは、旅人をもてなすユダヤ人は、アブラハムのような純粋な信仰を持っている人である可能性が高いということです。つまり、こまっている旅人をもてなす人は、神を愛し、隣人を愛することを実践している人である可能性が高いということです。
ルカの福音書にしか記されていない「良きサマリア人」のたとえ話を思い出してみましょう(ルカ10:30-37)。祭司、レビ人は、強盗に半殺しにされた旅人を見て見ぬふりをしたが、サマリア人はその人を介抱し、宿屋に連れて行き、すべての費用を出してくれたという話です。ここからも、イエス様は神様を心から愛している人は、人が見ていても、見ていなくても、神様の前で正しい行いを選択し、隣人を愛する(旅人をもてなす)という行動を選択すると考えられていたのでしょう。
とはいえ、イエス様は、旅人をもてなすユダヤ人の全員がイエス様の福音を受け入れるわけではないこともご存知でしたから、その点についても注意を与えながら、弟子たちを送り出したのでしょう。
「宣教地」を「宣教池」と呼び、、同じ釣りをするのであれば、魚がたくさんいる池、餌に良く食いつく魚がいる池で釣りをすべきだと教える人がいます。釣りの例えはちょっと乱暴に聞こえるかもしれませんが、イエス様も弟子たちを「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と招かれましたね。
漁師たちが釣りのための知識が豊富であったように、イエス様も福音を伝えるための知識が豊富であったのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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