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2017年9月25(月)
【通読】
マタイの福音書 20:1-16
1天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。2彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。3それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。4そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』5彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
6また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』7彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』8こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』9そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。10最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。11そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、12言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』13しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。14自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。15自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』16このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
【ポイント】
①「あとの者が先になり、先の者があとになる」とは?
イエス様は「救いの順番」の話しをしているのではなく、ご自身と天の父の「気前の良さ」「公平さ」について説明されているのです。つまり、ユダヤ人は旧約聖書を先に知っているという理由で救われるわけではなく、まことの神様とその愛を知り、神様を心から愛し、人生を委ねる者をお救いになるということです。ですから、場合によっては先祖代々律法、預言について知っていたユダヤ人よりも、まことの神様を知ったばかりの異邦人が先に救われることになると教えられているのです。もちろん、ユダヤ人であっても、まことの神様を愛する者が救いから漏れることもありません。神様の救いを決定づけるのは、神様との愛の関係が結ばれているか否かであるからです。そのような観点から見れば、後から神様を知り、愛した異邦人に先に救いを与えられる神様の行為には「狭量さ」「不公平さ」などは全くないことが分かるのです。
今日の箇所は、ユダヤ人にとっては腹立たしい話ですが、私たち異邦人にとっては神様の恵み以外の何ものでもありません。まことの神様は、表面的な宗教熱心さ、宗教的な知識、宗教的なキャリアの長さで誤魔化される方ではありません。神様は私たちの最も本質的な部分、つまり私たちの神様に対する愛を見て下さる方なのです。
クリスチャンの歴史も長いので、同じ観点から自分たちを見ることができます。神様は、「代々クリスチャンの家系だから」とか、「幼児洗礼を受けているから」というような理由で、人を救われることはありません。その人がまことの神様を知り、悔い改め、神様を愛する者となるときに、その絶対的な「気前の良さ」「公平さ」から、その人の罪を赦し、救いを与えて下さるのです。
ライフチャーチ
大谷信道