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2022年9月28日(水)
ローマ人への手紙 3章23-24節 23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
【ポイント】 ①これぞ福音! あなたはこの2節から何を発見するでしょうか?「全人類の罪」でしょうか?「義と認められる」方法でしょうか?「恵み」の意味でしょうか?もちろん、それらのことを知識として知ることができることは間違いありません。しかし、私たちがこの2節からまず感じ取るべきことは「神様の愛」なのです。この2節から「ああ、神様はこんなに罪深い私のことを本当に愛してくださっているのだなー。」としみじみと感じ取ることができているでしょうか。
私たちが、このパウロのことばに心からの共感を覚え、神様の愛を感じ取ることができていないとしたら、何が問題なのでしょうか。その一つは、自分の罪の深刻さに気付いていないことでしょう。残念なことに、自分の罪深さを直視することに恐れを覚える人が多いのです。自分の心の中の最も汚い部分に目を向け、その現実を認めることは決して簡単なことではありません。しかし、今日の個所には大きな励ましが含まれているのです、それは「すべての人は、罪を犯した」という部分です。つまり、自分の心中にどれほど醜い部分があったとしても、自分だけが異常なのではなく、他のすべての人の心の中も同じなのです。ですから、私たちは大胆に自分の罪を直視することができるのです。
さらに、私たちが自分の罪深さを直視することができる理由は、私たちには罪の赦しと救いが与えられているということです。新型コロナウイルスであろうが、ガンであろうが、そこに治療法(治療薬)があれば、恐れは大きく減ることでしょう。罪の問題も同じです。自分の罪を直視した人は、自分は救いようのない存在であることに気が付きます。しかし、そこに解決策があることを知れば、自分の心の中に一番汚く、醜い部分をしっかりと見つめ、認めることができるのです。
それでは、その「解決策」とは何でしょうか?ここで「方法論」に陥ってしまうクリスチャンが多いので注意が必要です。イエス様は、罪の救いの方法を教えられたのではありません。むしろ、その逆で「方法論」では解決できないことを教えてくださったのです。イエス様の時代のパリサイ人たちは「律法の行ない」によって、神様の前に正しい者となることができる(義とされる)と教えていました。現代のクリスチャンの中には「罪を悔い改める(告白する)」「イエス様が救い主だと信じる(口で告白する)」などと教える人が多いのですが、これも一種の方法論なのです。私たちが、気づくべきことは、神様が救いようのない罪人である私を愛してくださっていることです。私たちがこの愛を受け取り、神様を愛すること、神様との愛の関係が気づかれている状態こそが「救い」なのです。繰り返しになりますが、自分の罪に絶望していれば、その自分に救いの手を差し伸べてくださっている方の愛に気づき、喜ぶことができるのです。
おそらく、パウロは神様の愛、あわれみ、恵みをひしひしと感じ取りながら、この2節を書いていたことでしょう。自分の罪に絶望し、キリストの愛の福音を聞いた私たちも、そのメッセージを共有することができるのです。
ライフチャーチ 大谷信道