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2021年9月28日(火)
マタイの福音書 10:21-23 21兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。22また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。23彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまでに、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないからです。
【ポイント】 ①イエス様を愛するとは? 1世紀のパレスチナにおいては、誰かがイエスをメシアとして信じることは、ユダヤ教のコミュニティーからの追放や迫害を招く重大事でした。今日の個所では、家庭内においても、イエス様を信じた人を死に至らせるような暴力が行われることまで警告されています。
誰もがそのような状況を避けたいと思ういますが、「イエス様を取るのか、家族を取るのか」という決断が迫られたときに、私たちの決断にはグレーゾーンがあることは、イエス様も、家族も許してくれないのです。反対に、そのような状況こそが、私たちのイエス様を一番にしているという、私たちのイエス様に対する愛が問われるのです。
あなたは、愛する家族ではなく、イエス様を取る決意ができているでしょうか。
ただ、1点だけ覚えておくべきことは、イエス様を愛するということは、家族を憎むことではありません。例えば、結婚も同じです。結婚とは、私たちが一番愛する対象を、両親や兄弟から、夫・妻に変更することでもあります。わたしたちの決断について、家族から祝福されることもありますし、反対されることもあります。それが、どちらにせよ、私たちは自分の決断によって人生を歩んで行くことになります。これは、ある種の「自立」であり「自由」でもあります。究極的には、自分が何を一番大切にして生きて行くのかを、たとえ親であっても決めることはできないのです。信仰も同じなのです。イエス様は、私たちが家族の価値観、コミュニティーの価値観、国の価値観に縛られることなく、自由に自分の一番愛するべき者を愛することを許されたのです。
同時に、あなたのイエス様を一番愛するという決心に反対する人々は、家族を2番目に愛するということでもあります。たとえ家族から心配されたり、反対されたり、迫害を受けたり、家から追い出されたりしとしてもです。私たちがするべき決意は、家族を憎むことでも、家族を捨てることでもありません。信仰決心にせよ、結婚の決意にせよ、その後にあなたが幸せで、祝された人生を送っていれば、家族は喜んでくれるはずです。
ですから、イエス様を一番愛することを決断することに躊躇する必要はないのです。
ライフチャーチ 大谷信道