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2021年9月29日(水)
マタイの福音書 10:24-25 24弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。25弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。
【ポイント】 ①イエス様を愛するとは? その2 人々は、イエス様を「ベルゼブル」と呼んでいたようです。語源については諸説あるようですが、それを使っていた人々は「悪霊のかしら」「サタン」の意味で使っていたことは明らかです。師であり、家長であるイエス様を「悪霊のかしら」と呼ぶ人々は、イエス様の弟子、しもべを「悪霊」「悪魔」扱いすることは当然であるというのが、今日の個所でのイエス様の説明です。25節の「ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。」という質問の答えは、「彼らは弟子たちを悪魔と呼ぶでしょう」となるわけです。ただ、問題は「呼び方」ではありません。イエス様をサタン扱いする人々は、弟子たちも悪魔扱いし、迫害するということなのです。
今日の個所の私たちに対するメッセージはこうです。「あなたは迫害の予告を受けたとしても、あなたの信仰を変えることがありませんか?」信仰決心をしようとしたとき、信仰決心をした直後に、このような質問をされたらどうだったでしょうか。信仰決心から時間が経って、信仰を強められている今はどうでしょうか?
残念ながら、クリスチャンの中には、イエス様を信じることによって得られる祝福(利益)と、イエス様を信じることによって受ける迫害(損害)を天秤にかけ、得な方を選ぼうとするかもしれません。しかし、それは「愛」ではなくなってしまいますね。損得を計算しながら、結婚をしたり、子育てをする人がいたら、そのような人は尊敬を受けることはありません。なぜなら、純粋な愛の中に損得計算など入り込む余地がないことを私たち罪深い人間でも知っているからです。
ですから、迫害でイエス様のもとを離れている人がいたとしたら、それは信仰を捨てたのではなく、最初から信仰がなかったということになります。愛の関係が築かれていれば、先に述べたように損得勘定で心の思が変わってしまうことはないからです。
ということは、私たちは迫害の予告がされたときにするべきことは、イエス様との愛の関係をさらに深いものにすることです。19節にあった通り、何を話そうかとか、何をしようかなどと考えておく必要はないのです。
ライフチャーチ 大谷信道