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2020年9月30日(水)
へブル人への手紙 13:3-4 5金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」6そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」7神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。8イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。
【ポイント】 ①信仰と愛の実践の関係を知る その3 恐らく、人間の「愛」についての最大の問題は「金銭を愛すること」だと思います。イエス様は2000年前に次のような警告を与えられています。「24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)
さらに、忌々しき事態は、多くのクリスチャンが「神を愛する」と口では告白しながら、実際の生き方を見ると「金銭(富)を愛する」生活をしていることです。献金の話をするとつまずいてしまう人がいるため、現代の教会では「十分の一のささげもの」についてはっきりと教えることを躊躇する牧師が増えているのではないでしょうか。もちろん、それが「律法主義的」「ご利益主義的」になってしまったり、教会全体が献金集めを目的としている新興宗教のようになってしまうことは絶対に避けなければなりません。しかし、収入の十分の一(それ以上)を神様に惜しまずにささげることにチャレンジするだけで、私たちは「金銭を愛する生活」をしているのか、「神を愛する生活」をしているのかを、極めて明確に知ることができるのです。つまり、心の中に「惜しむ気持ち」や「十分の一をささげなくてよい理由」などがあることに気が付けば、自分の神様に対する「愛」、「信頼」のいい加減さに気づくことができるということです。
「神様を愛する」といいながら「収入の十分の一を惜しむ自分」「いま持っているもので満足できない自分」がいないか自分自身の心をしっかりと見つめてみましょう。そして、私たちがどれだけ強く神様との愛の関係を築くことを心に願っていても、「金銭への愛」の問題が解決しない限り、それは神と富に二股をかけているのと大変似た状況に陥っていることを知らなくてはならないのです。二股をかけている人の中には「私はAさんもBさんも心から愛しているので、どちらかを選ぶことなどできない!」と、それが自分の純粋な気持ちであり、悪意はないと考えてしまう人もいるのです。しかし、客観的(相手の立場に立って)に見れば、その気持ちは決して純粋なものではなく、単なる自己中心であることは明らかですね。自分自身の「神」と「富(金銭)」に対する愛についても、私たちは客観的に、そして神様の立場に立ってみてみましょう。
神様は私たちの罪の贖いのために、御子をも惜しまずに与えてくださいました。そのことによって、私たちは神様が私たちを本当に愛してくださっていることを知ることができました。この事実を忘れてはならないのです。
ローマ人への手紙 8章32節 「32私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
ライフチャーチ 大谷信道