デイリーディボーション 9月4日(金)

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デイリーディボーション 9月4日(金)

2020年9月4日(金)
へブル人への手紙 11:11-12 11信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。12そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
【ポイント】 ①「信仰」と「神様の計画」の関係 確かに、アブラハムとサラの夫婦は子どもを求めていました。しかし、イサクが与えられた時点では、サライは自分に子どもが与えられることをほとんど諦めていたことが分かります。「11アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。12それでサラは心の中で笑ってこう言った。『老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。』」(創世記18章)
創世記11章でサラ(サライ)が初めて登場するときに、彼女は「不妊の女」(創世記11:30)と紹介されています。その直後の12章2節で、神様がアブラハムに「あなたを大いなる国民とし」という約束をされアブラハムと共にハランの地を出発した時は65歳でした。アブラハムと結婚してから65歳でハランを出発するまで、そして、子孫繁栄の約束を受けてハランを出発してからも、何と25年間もサラは「不妊の女」として生き、そして閉経を迎えたのです。つまり、「子どもが与えられること」をすでに信じていなかったのです。ですから、「サラは子どもが与えられることを一時たりとも疑うことがなかったので、その信仰によってイサクが与えられた」と言うような話ではないのですし、それを「信仰」と呼んでいるわけではないことが分かるのです。
ここで分かることは、神様は必ずご自分の計画、約束を実現される方であることです。さらは、約束の実現が遅くなったことに腹を立てることもなく、つぶやくこともなく、神様に不誠実になることもなく、与えられた現実を受け入れ続けていたのです。その神様に対する誠実さが「信仰」と呼ばれているのでしょう。決して、自分の願いが実現することを信じ続けることを「信仰」と呼んでいるわけではないのです。
サラの信仰は決して「受動的・受け身」ではなかったことを覚えておきましょう。自分がサラと同じ状況にあったとしたら、何十年間も神様に対して、そして、周囲の人々に対して、前向きで誠実な姿勢を維持することができるか考えてみましょう。
ライフチャーチ 大谷信道


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