デイリーディボーション 9月4日(水)

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デイリーディボーション 9月4日(水)

2019年9月4日(水)
マルコの福音書 15:33-35 33さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。34そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。35そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。
【ポイント】 ①御子は本当に見捨てられた 「イエス様は復活することを知っていたので、彼の十字架での苦しみと死は本物ではない」と考える人がいるかもしれません。しかし、イエス様が十字架で味わったのは、偽物の死(仮の死)ではなく、罪の報酬としての永遠の死、神様からの愛からの完全な隔絶、本当の死であったことに間違いはありません。もし、手を切り落としてもすぐに生えてくる体を持っていたとしたら、ノコギリで手を切り落とされても平気でしょうか。手が生えてくる保証があったとしても、そこで感じる痛みや苦しみが軽くなることはありませんね。実際、爪は剥がしても生えてくるものですが、剥がされるときの痛みや恐怖は拷問として用いられるほど大きなものなのです。
ですから、イエス様の「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」ということばは、文字通り天の父がイエス様を完全に見捨て、死を与えられたことを意味しているのです。残念ながら(祝福なことに)、私たちクリスチャンは、永遠の死を経験することはありませんから、その本当の苦しみを味わうことはできません。しかし、私たちは神様から与えられている想像力をフル活用して、永遠の死の苦しみを想像することが大切なのです。なぜなら、 私たちは時として、神様に愛されていること、神様がともにいてくださること、罪が赦されていることが当たり前と感じるようになってしまうことがあるからです。イエス様が経験された完全な死について想像するときに、その死によって与えられている救いの尊さを再確認できるのです。
ライフチャーチ 大谷信道


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