デイリーディボーション 9月6日(木)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 9月6日(木)

2018年9月6日(木)

コリント人への手紙 第一 14:10-13
10世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。11それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。12あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。13こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。

【ポイント】
①教会の徳を高める ーその4ー
御霊の賜物は教会の建て上げのための「道具・ツール」です。ですから、大工道具であれ、調理道具であれ、道具は正しく用いなければ自分や他者を傷つけたり、場合によっては命を奪ってしまうこともあります。しかし、そのような事故が起きたとすれば、その責任は道具自体ではなく、道具を用いた者にあることは誰でもが知っています。

異言の賜物も同じです。異言を教会の建て上げのためではなく、自己満足、自己顕示のために用いたとすれば、教会の中に様々な問題を引こ起こす原因となることでしょう。しかし、その問題の原因は異言自体にあるのではなく、その賜物を用いる人にあるのです。

もし、異言が人間の努力や訓練によって身につけるものではなく、聖霊の力によってのみ与えられる賜物だとすれば、言うまでもなく、それを与えられるのは神様です。今も生きておられ、すべてをご存知の神様が、正しく用いることができない人に異言の賜物を与えられるでしょうか。異言を語る者の全員が本当に御霊の力によってのみ異言を用いているのであれば、パウロが指摘しているような問題が起きるはずがないのです。異言について教会の中に何らかの問題が起きているとすれば、その異言は御霊の力によるものではなく、人間的な力が入り込んでしまっている証拠なのです。(実際に、「バナナ、バナナ、バナナ」などのことばを連続して発音させ、異言を話せるようになるためのトレーニング方法を教えている教会もあります。そのようなものは「御霊の賜物」ではありませんね。)

この点について、私たちクリスチャンはナイーブになってはいけません。異言の賜物用いている人がいたとして、その人が教会の徳を高めることに熱心でない場合、キリストの愛を実践していない場合、パウロの教えに従って用いていない場合、私たちは異言を語る人に、その用い方についてしっかりと聖書から教える必要があるのです。その人が聞いたこともない不思議なことばを話しているからと言って、それが御霊の働きである証拠ではないのです。

ライフチャーチ
大谷信道


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