デイリーディボーション 9月6日(水)

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デイリーディボーション 9月6日(水)

2017年9月6日(水)

【通読】
マタイの福音書 17:22-23
22彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。23そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。

【ポイント】
①「聞きたくないこと」もしっかりと聞く
16章では、イエス様の殺害と復活の話しを聞いたペテロは「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」とイエス様をいさめ、その結果イエス様からひどく叱られてしまいました。ところが今回は、弟子たちはイエス様のことば真剣に耳を傾けています。さらに「彼らは非常に悲しんだ」という箇所から、自分たちにとっては絶対に起こってほしくないと思っているシナリオを真摯に受け入れている姿を見ることができます。

これは、私たちが想像しているよりもはるかに大きな出来事なのです。弟子たちは、イエス様が新しいイスラエルを建国し、すべてを捨てて従ってきた自分たちは、新しい国で要職に就くことができるとを夢見ていたと思われます。イエス様が人の手に渡され、殺されてしまうとうことは、彼らの夢が水の泡と消えてしまうことを意味するわけです。ですから、最初ペテロはイエス様に説教するような態度に出てしまったのです。

とはいえ、弟子たちが自分たちの夢を完全に捨てきれたわけではないことが、この直後の18章1節の「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」という質問から分かります。

このような出来事から、私たちはいかに自分の聞きたいことしか聞かないのか、自分の思いに合致しない教えを受け入れようとしないのかが分かります。皆さんはどうでしょうか。神様が自分の願い、期待、夢がどのように実現してくださるのかということばかりに興味や関心が向いていることはないでしょうか。それとも、神様の願い、期待、夢がどのように実現されるのか、そのために自分は何ができるのかということを考えているでしょうか。自分の心の思いをしっかりと見つめてみましょう。

私たちは自分の夢ではなく、神様の夢の実現のために人生を捧げるときにこそ、本当の幸せ、平安を味わうことができるのです。この逆説的な真理を体験しようではありませんか。

マタイ16章
24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。26人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

ライフチャーチ
大谷信道


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