誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2021年9月7日(火)
マタイの福音書 9:14-15 14するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」15イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。
【ポイント】 ①何が一番大切なのかを考える。 今日の個所では、バプテスマのヨハネの弟子たちが「断食」について、イエス様に質問をしています。ここから分かることは、バプテスマのヨハネとその弟子たちは、パリサイ人たちとイエス様とその弟子たちは、自分たちと「律法の理解(信仰)」について、非常に近い考え方であるという認識を持っていたということです。ですから、ヨハネの弟子たちは、イエス様の弟子たちも、自分たちのように「断食」を行っていると思っていたのに実際にはそうでなかったことに驚いたのでしょう。そして、ヨハネの弟子たちは、イエス様を本当に信頼して良いのか不安に思ったのでしょう。
この質問に対するイエス様の答えは、非常にシンプルで、現実的で、自然なものです。イエス様は当時の結婚式を例えとして用いられていますが、その感覚は現代の日本に暮らす私たちを大きく変わることは無いと思います。あなたが自分の結婚式に大切な友人を招き、食事のメニューも一生懸命考え、一緒に祝宴を楽しみたいと思っていたのに、「ごめん、いまダイエット中だから、何も食べられないんだ。」と言われたらどうでしょうか。「今日はお祝いなんだからダイエットをしなくたっていいじゃないか!」と思いますよね。
ここで、重要なポイントを考える必要があります。それは、「断食の目的」です。聖書に記されている断食の目的は何なのでしょうか。その目的は他のいかなることよりも重要であれば、いかなる状況にあっても断食を優先させるべきです。例えば、実際の結婚式の例で考えれると、試合直前のプロボクサーや、病気のための食事制限をしている人がいれば、食事をしない理由、目的が極めて明確ですから、新郎新婦は無理しなくて大丈夫だと伝えることでしょう。それでは、パリサイ人、ヨハネの弟子たちにとって「断食」はどれほど重要な意味(目的)も持ったものだったのでしょうか。
旧約聖書の十戒にも、律法全体の中にも「断食」が命令されている箇所はありません。つまり、断食をしないことが罪を犯すことにはならないということです。あくまでも、ユダヤ人の習慣であったということです。しかし、イエス様は断食を禁じられているわけでもありません。さらに、旧約聖書をみると、一番最初に出てくる「断食」の個所は士師記20章26節です。「26それで、すべてのイスラエル人は、全民こぞってベテルに上って行って、泣き、その所で主の前にすわり、その日は、夕方まで断食をし、全焼のいけにえと和解のいけにえを主の前にささげた。」ここに見る断食は、霊性を高めるためでも、よりよく祈るためでもありません。彼らに断食をさせたのは「悲しみ」です。多くの人の死に悲しみ、食べることに喜びを覚えず、食べたいとすら思えなかったのです。
イエス様は「花婿との喜びの時に断食をする理由はない、しかし花婿との別れに際して、弟子たちは悲しみのため食事が喉を通らなくなり、食べなくなるのです」と説明していることが分かります。
個人の信仰や霊性の向上のため、人々からの尊敬を得るため、人々から不信仰のレッテルを貼られないため、など、聖書に見る「悲しみのため食べたくない・食べられない」という本来の断食の姿から人々が離れてしまった状態にイエス様は心を痛められていたことでしょう。同時に、イエス様は「断食」の本来の自然な姿を人々に教えられたのです。
ライフチャーチ 大谷信道