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2021年9月8日(水)
マタイの福音書 9:16-17 16だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。17また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」
【ポイント】 ①「新旧」ではなく「真理」が問題 ご自身がはっきりと教えられている通り、イエス様は旧約聖書の律法を破棄するために来られたのではありません(参マタイ5:17-18)。あくまでも、唯一の神様についての「真理」(本当の性質、本当の願い、本当の計画)を明らかにされただけなのです。つまり、旧約聖書全体も間違いなく神様についての「真理」が啓示されているものだけれど、それは神様について100%啓示されたものではなく、イエス様が御子として、神様ご自身として啓示された内容が最終的な真理だということです。「真理」は時代、地域などによらず常に正しいことでなければ「真理」ではありませんので、「真理」に「新旧」はありませんが、あえて分かり訳す説明するのであればイエス様のみことば(啓示)は「新しい真理」なのです。それが、「新しいぶどう酒」なのです。
ですから、「新しいぶどう酒」である真理を受け入れるためには、受け入れる側の私たちも、それにふさわしい柔軟姿勢が求められるということです。それが「新しい革袋」なのです。ユダヤ人間が勝手に作り上げた「伝統」「習慣」「言い伝え(聖書的でない教え)」など、聖書の真理とは別の固定概念にとらわれている状態は「古い革袋」であり、その固定概念や先入観に囚われ、心が凝り固まった状態では、「新しぶどう酒」であるイエス様の真理を受け入れることができないということです。
「布切れ」のたとえも同じです。当時の人は、常識として。わざわざ「新しい布切れ」を古い着物の穴や破れを補修するために使うことはないという知識を持っていました。つまり、新しい布切れは、新しい着物を作るために用いるべきだということですね。言うまでもなく「新しい布切れ」とはイエス様の福音のことです。イエス様の福音を、「古い教え」の継ぎはぎに用いるようなことをしても意味がないということですね。イエス様の福音と当時のユダヤ教の教えを両立させようとしても、そこには矛盾が生じてしまうということです。
ここで注意が必要です。クリスチャンの中には「新しいこと」が良いことだと勘違いをしてしまっている人がいます。つまり、「新しい神学」「新しいい聖書解釈」「新しい礼拝のスタイル」「新しいメッセージスタイル」などです。この世においては、日々、科学技術、医学、IT技術などが進歩しています。ですから、多くのクリスチャンが「新しいことは良いことである」という先入観をもっているようです。もちろん、教会においては、古い伝統が大切であるという、別の先入観がありますので、必ずしもすべてのクリスチャンが、新しいものが良いものであると考えているわけではありませんが、特に「メガチャーチ」と呼ばれる大規模教会では、人々を飽きさせないため、より多くの人に興味を持ってもらうために、新しいことに挑戦することに必死です。そのような、姿勢を正当化するために「新しい革袋」「新しいぶどう酒」の例えが用いられることもあるかもしれません。しかし、イエス様が今日の個所で伝えられているのは、あくまでも「(新しい)真理」を大切にすることであり、、決して「新しいこと」を大切にすることではないことを知らなくてはなりません。
ライフチャーチ 大谷信道