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2017年9月8日(金)
【通読】
マタイの福音書 18:1-6
1そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」2そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、3言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。4だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。5また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。6しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
【ポイント】
①あなたも偉くなりたいですか?
「偉くなりたい」「権力、支配力を持ちたい」「注目、尊敬を集めたい」などという欲求は非常に大きな大きなものです。誰でも他者との関係において、「自分が優位、上位でありたい。」、「自分の理想通りに物事を進めたい。」という欲望を持っているのです。
自分は「偉い人などになりたくない」と思っている人も注意が必要です。「権力や地位を求める人間は愚かだ。」と考えている人も、結局のところ「自分はもっと謙虚で、賢い人間になりたい」というように、「自分のほうが優れた人間である」「自分のほうが尊敬される人格を有している」と自分の優位性に誇りを覚えていたりするのです。つまり、心の憶測にある欲求、欲望には大きな違いがなかったりするのです。これが、人間の「性・さが」「罪の性質」なのです。
②自分の罪深さを認める
あなたは、「他者との比較」という悪い習慣のために、あるときは「優越感」を感じ有頂天になり、あるときは「劣等感」のために落ち込んでしまうというような、感情の起伏に翻弄されてしまうような生き方をしていることはないでしょうか。
信仰の歩みも例外ではありません。他の人と比べ自分のほうが信仰的、献身的であると思えば、その優位性に幸せを感じたり、それゆえに神様が自分のことをより愛してくださっているという感覚をもってしまうのです。そして、そのような感覚が「信仰の喜び」であると勘違いしてしまうクリスチャンも少なからずいると思います。
このようなクリスチャンは「自分は信仰的、献身的に歩んでいる!」という自負があるので、自分が「他者との比較の中で優位性を覚える」という罪の性質に翻弄されていることに気が付かないことです。ですから、私たちにとって大切なことは、私たちはこの弟子たちと何ら変わることがなく、罪の性質に振り回されることがある弱い存在であることを認めることなのです。
③子どものようになる
子どもは罪の性質と無関係なわけではありません。しかし、ここでイエス様が語られているのは、親の愛によって満たされ、親の愛を純粋に求めるという一般的な子どもの姿です。そしてこの「子どものたとえ」が意味していることは、私たちも、天の父の愛を素直に受ける時に、他者との比較、優越感、劣等感などから解放され、100%受け入れられているという神様との関係の中でこそ本当の喜びを味わうことができるということなのです。
ライフチャーチ
大谷信道