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2020年9月9日(水)
へブル人への手紙 11:17-19 17信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。18神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、19彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。
【ポイント】 ①旅人、寄留者として生きる その2 イエス様の私たちに対する招きのことばを見てみましょう(今日はマルコの福音書から)。
マルコの福音書8章34-38節 34それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。35いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。36人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。37自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。38このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」
神様から招きを受け、神様の計画の実現のために生きたアブラハムの人生を見ると、その生き様はイエス様が招かれているそれと全く同じものであることが分かります。ヘブル書の著者もパウロも、その生き様を「信仰」と呼んでいるのです。ちょっと長いですが、参考のためにローマ人への手紙の4章を確認してみましょう。
ローマ人への手紙4章 9それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、10どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。11彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、12また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。13というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。14もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。15律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。16そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。17このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。18彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。19アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。20彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、21神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。22だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。23しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、24また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
「あらゆる国の人々の父」になることは、アブラハムの夢や願望でもありませんでした。ある意味神様から一方的に与えられた計画(使命)です。しかし、アブラハムは神様のことばを信頼し、神様の約束が実現することを信じていました。そのれは、イエス様の言う「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」という生き方と一致するのです。しかし、その結果、アブラハムは神様の祝福の中を生きることになったのです。
あなたの信仰はどうですか?「信仰」の目的が、自分の夢や計画の実現という本末転倒になってしまっていることはありませんか。残念なことに、その本末転倒な信仰がキリスト教の信仰であるかのように教えている教会、それが信仰であると信じ切っているクリスチャンが少なくないのです。しかし、福音書にある通り、終わりの時には、私たちは「自分のために生きた」のか「主のために生きた」のかを問われることになります。手遅れになる前に、私たちはこの質問を自分に問いかけ、正しい信仰に生きるための軌道修正を行うことが重要なのです。
ライフチャーチ 大谷信道