誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2022年9月9日(金)
ローマ人への手紙 2章4-6節 4それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。5ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。6神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。
【ポイント】 ①「ジェンダー・性」の問題の本質を理解する その3 神様の人間の創造の記述などから、肉体の性と心の性が一致しない状態が神様の創造の秩序に反していることは明らかです。しかし、同時にすべての人間が神様の創造の秩序に反した罪深い存在であることも明らかです。「23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3:23)さらに重要なポイントは、クリスチャンは自分の努力や修行によって罪を克服したのではなく、ただ神様のあわれみと恵みにより、イエス・キリストの愛を受け取り、イエス・キリストを愛する愛(信仰)により、罪が赦されているということです。これは、クリスチャンであっても、依然として罪の性質を持ち続けていることを意味しています。ですから、私たちが自分の罪の性質を棚に上げ、肉体の性と心の性が一致しない人たちを罪人としてさばくことは、まぎれもない「偽善」であり、神様の恵みを無にする行為なのです。分かりやすい例えの1つは、マタイ18章21-35節の「仲間の借金を赦さない家来のたとえ」です。
ただ、ここで絶対に勘違いしてはなりません。神様のあわれみ、慈愛、忍耐、寛容を軽んじ、何をしても罪にはならないと神様を侮っている人は、その考え・行動に従ってさばきを受けることになるということです。しかし、キリストの十字架で明らかにされた神様の愛を知り、その愛を受け、神様を愛する人生を選んだ人は、罪を犯さない人間になっていなくても、さまざまな罪の性質を持ち続けたままでも、神様との愛の関係(信仰)ゆえに、罰を受けることはないのです。異性愛者であれ、同性愛者であれ、神様を愛し、キリストの戒めの実践として、一人の人を生涯の伴侶として愛し、仕える者を神様は喜んでくださるのでしょうか。最後にルカ18章9-14節を見てみましょう。
ルカ18章9-14節 l9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。10「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
ライフチャーチ 大谷信道