デイリーディボーション 10月17日(水)

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デイリーディボーション 10月17日(水)

15あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。16
しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしとわたしを遣わした方とがさばくのだからです。17あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。18わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」
19すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」20イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

【ポイント】
イエス・キリストは裁き主です。この事実はキリストを信じる者に平安と希望をもたらします。反対に、キリストを信じない者にとっては裁きの事実は恐れ、不安以外の何ものでもありません。イエス・キリストは間違いなく裁き主であるのに、今日の箇所では「わたしはだれをもさばきません。」
と宣言されています。どういう意味なのでしょうか。文脈から明らかですね。イエス様は、パリサイ人たちが行なっているように「肉によって」は裁かないと言っているのです。「肉によって」とは神様の御心とは違う、人間的な尺度、人間が勝手に造りだした規則を指しています。おそらく、今日の箇所の意味をわかりやすくするために、8章の1節から11節までの「姦淫の女」のエピソードが挿入されたのでしょう。10節と11節のイエス様のことばに注目しましょう。「10イエスは身を起こして、その女に言われた。『婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。』11彼女は言った。『{主よ。}だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』」

これまでも何度か確認してきましたが、イエス様は罪人を裁き、罰を与え、永遠の死を与えるために来られたのではありません。罪人を悔い改めに導き、赦し、義とされ、神の子とし、永遠のいのちを与えるために遣わされ、その計画を完成させるためにご自身を十字架にささげられたのです。例えば、ルカ15章の放蕩息子のたとえ話から分かるように、天の父は罪人が悔い改め、立ち返り、ご自身のもとに帰ってくることを願われているのです。神様が、そのことをどれほど強く願われているのかは、ご自分の独り子を自身で手にかけ、犠牲にするほどです。そして、天の父は、キリストを信じ、神様のところに帰ってくる者を拒まれることは絶対にありません。どれだけ罪深く、依然として罪の性質を持っている者であっても、かつてどれほど重大な罪を犯してものであっても、神の愛を知り、神を愛する者を拒否されることはありません。人間的な基準からすると、決して赦してはいけない者、一生罪の重荷を背負い、罪の償いをし続けるのが当然と思われる者であっても、悔い改め、御子を信じる者はすべてご自身の子どもとして受けれ、愛してくださるのです。

【祈り】
「神様、あなたの御子イエス・キリストを信じる私があなたの前に平安と喜びをもって立つことができますから感謝します。あなたに完全に受け入れられる喜びを感謝します。今日も、あなたの愛に実を委ねます。あなたの愛だけで満ち足りる者として歩むことができますように、私の心を守ってください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。」

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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