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2013年8月16日(金)ピリピ人への手紙 2:3-53何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。 4自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。5あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
【ポイント】①すべての模範はイエス様の生き方聖書は単なる倫理、道徳を教えているのではありません。また、クリスチャンの歩みは規則・戒律に縛られるものでもありません。私たちが自己中心、虚栄を捨てる理由、謙虚に生きる理由は私たちが主と信じ、従っているイエス・キリストが地上でそのように歩まれたという一点にあります。当然、私たちはすべての点においてイエス様と全く同じ生き方ができるわけではありません。しかし、イエス様は私たちが従うことができるように、その道筋をはっきりと示してくださったのです。
②良い教師と悪い教師イエス様は自分ができないことを弟子たちさせることは一度もありませんでした。また、自分が見本を見せずに、弟子に何かをさせることもありませんでした。むしろイエス様の一挙手一投足のすべては、当時の弟子たち、そして将来の弟子たちのための模範だったといっても過言ではありません。一方、パリサイ人の中には、自分が行なっていないことを人々に行わせようとする者達がいました。イエス様はマタイ23章で彼らをこのように批判されました。「3ですから、彼ら(パリサイ人)があなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。 4また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。」ここに良い教師と悪い教師の違いがあります。両者は同じような事を教えているかもしれませんが、もし教えている者が自分の教えている事を実践していなければ、その教師は良い教師とは見なされないのです。
それでは、私たちのほとんどが教師になれないのでしょうか。決してそうではありません。教師は知識を伝達するだけの者でなく、自ら模範を示して人を導いていく者であることを自覚していることが大切なのです。そして、自分が実践できていないことでも教える必要があるときには、自分もその内容に取り組んでいる最中であることを隠さず、分かち合いながら教えれば良いことなのです。【祈り】《マタイ11章》29わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます
30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」ライフチャーチ牧師 大谷 信道