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2014年11月27日(木)
【通読】
ガラテヤ 1:8-10
8しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。9私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。10いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。
【ポイント】
①人間は律法主義が好き
ガラテヤの教会に「律法主義」的な教えが入り込んだ理由の一つは、人々がそれを喜んだということがあると思われます。それは「人の歓心を買おうと務めている」という表現からも推測できます。この世においては、自分が努力をする者が、その結果として何らかの報酬を受け受け取ることは正しいことと考えられています。反対に、努力を怠る者が、将来苦労をすることは当然の報いだとも考えられています。ですから、将来良いものを受けるために努力を続けてきた真面目な人にとっては、ただキリストを信じるだけで罪が赦され、永遠の命が与えられるというキリストの福音、恵みは、どこか「不公平」に思えてしかたがないのです。むしろ、「律法主義」的な価値観の中に生きている方が公平に感じられ、優越感すら覚えながら生きることができるのです。また、常に律法に取り組むことは、いかにも何かに挑戦している感じがするのです。ですから、そのような人にとっては「律法主義」は「生き甲斐」であり、恵みの福音のメッセージは自分の努力、生き甲斐を完全に否定するものとなってしまうのです。
また、一度イエス様の福音を信じても、信仰生活を送る中で「律法主義」の心地よさを思い出し、その価値観を中心とした生活に戻りたくなってしまう人もいるのです。一人で律法を守る努力を続けることは決して悪いことではありません。しかし、自分の行いに優越感を覚えたり、努力を怠っていると思える他人、自分を裁き始めてしまうことが問題なのです。
自分が知らず知らずのうちに「律法主義」に陥ってしまっていないか、振り返ってみましょう。特に心に平安を覚えてない人、苦々しい思いがある人は要チェックです。もし、自分に律法主義的な傾向を見出したら、私たちの罪のために苦しみ、死んでくださったイエス様の愛と赦しを再確認しましょう。
【11月の聖句】
2コリント9:8
神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
【日曜礼拝の中心聖句】
ローマ人への手紙 12:1-2
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
【今週の適用と実践】
・完璧主義、完全主義に心を支配されていないか考えてみましょう。
・この世に調子を合わせてしまっていることがらをリストにしてみましょう。
・この世の心理学、道徳ではなく、聖書の中に答え求めましょう。
・聖徒の交わり(教会の交わり)を通して慰め、励ましを受ける習慣をつけましょう。
・毎週の礼拝が自分自身を捧げる真剣な時となっているのか、自分を振り返ってみましょう。
【今週の祈り】
「主よ、わたしどれほどこの世に調子を合わせてしまっているのかを教えて下さい。また、わたしがいかにこの世の教えに信頼し、あなたのみことばを軽んじているのかに気づかせて下さい。あなたのみことばが私のこの世的な価値観、考え方を変える力があることに気づかせて下さい。あなたとあなたの体である教会に与える生き方を実践する者とし、その時にあなたから与えられる喜びを体験させて下さい。」
ライフチャーチ牧師 大谷信道