デイリーディボーション 4月17日(水)

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デイリーディボーション 4月17日(水)

2013年4月17日(水)

ヘブル人への手紙 5:4-6
4まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。5同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼に、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われた方が、それをお与えになったのです。6別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

【ポイント】
「メルキゼデク」の説明は7章で詳しくできますので、その時に触れることにします。今日は「召し」について焦点を当てて学びたいと思います。今日の箇所では、アロンもメルキゼデクも、そしてキリストも「神に召されて」大祭司として立てられたことがポイントとなっています。そもそも「キリスト」というギリシャ語は、ヘブル語の「メシア」から来ていることばです。「メシア」とは「油注がれた者」という意味です。つまり、イエス様がキリストであるということは、神様に召され、油注がれたものであるということを意味します。しかし、それはキリストが天の父に劣るものであることを意味しているのではなく、キリストがそれまでの神様の計画、律法を無視した形で地上に使わされたのではなく、それまでの大祭司と同じパターン、つまり天の父に「召され」ている事、律法を完成させる形で立てられたという証なのです。

なぜそのことが大切なのかというと、本来「大祭司」はモーセやアロンのようにレビ族の子孫に受け継がれるべき職務でした。「あなたは、アロンとその子らに油をそそぎ、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせなければならない。」(出エジプト31:9)
イエス様は、ダビデ王の子孫、つまり「ユダ族」の子孫でした。「この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。
」(ルカ1:27) ですからイエス・キリストが「大祭司」であるとユダヤ人が聞けば、「なに馬鹿なことを言っているのだ、イエスはレビ族ではなく、ユダ族の人間だろ!」となるわけです。しかし、ヘブル書の著者は、「大祭司」であることは血統よりも、神様の「選び」「召し」が優先されることを説明しているのです。そして、その前例として、血統とは関係なく、モーセの律法以前に神様から直接召された「メルキゼデク」を引き合いに出しているのです。

この「召し」と「選び」の原則は、異邦人の救いにも見ることができます。私たちが神の子と、神の民とされるのは、私たちがアブラハムの子孫だからではなく、キリストの福音の招きによるのです。「12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12-13)
パウロもこのように説明しています。「6アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。7ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」

また、「大祭司」の職務は神様から与えられたものであって、与えられたものが誇ったり、栄光を受けるものではないという点も、キリストによる救いと同じです。「召し」とは「その人間を選びたい」という神様の御心であるという点です。つまり、「大祭司」の位も、「神の子」となる特権も、人間の努力よって獲得したものではないということです。この原則は「恵み」と呼ばれています。あなたがどのように感じているかとは関係なく、神様はあなたを愛したいから愛し、選びたいから選び、救いたいから救い、用いたいから用いられるのです。ですから、召された私たちは、その召しを誇ってはいけませんし、反対に「そんな資格はない」と自己卑下をしてもならないのです。ただ、「召し」という恵みを素直に感謝して受けることが大切なのです。

【祈り】
《2テモテ1章》
9神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
10それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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