デイリーディボーション 10月11日(木)

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デイリーディボーション 10月11日(木)

2012年10月11日(木)

ヨハネの福音書 7:37-39
37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

【ポイント】
仮庵の祭りはイスラエルの民がエジプトから救い出された後に荒野で40年間過ごしたことを覚える祭でした。イエス様の時代には仮庵の祭りの中で、神様がイスラエルの民に飲み水を与えられた出来事を記念するために、シロアムの池から水をくみ、祭壇に注ぎかけるという儀式が行われていました。荒野で飲み水が無くなったときに、イスラエルの民は神様が必要を満たしてくださることを信じることができず、「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」(出エジプト17:3)とモーセとか神様に対してつぶやきます。そこで、神様はモーセに「さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」とモーセに告げ、実際に水を与えてくださいました。神様はその場所を「メリバ」と名付けさせました。その理由は「また彼らが、『主は私たちの中におられるのか、おられないのか』と言って、主を試みたからである。」(出エジプト17:7)と書かれています。すべてのイスラエルの民はこの出来事を知っていました。ですから、自分たちの祖先の不信仰と、その不信仰にかかわらず水を与えてくださる神様の恵みを覚える時でもあったのです。

水を与え、渇きを癒すという行為は、イスラエルの民にとって神様の恵みと憐れみの象徴でした。さらに、「渇きを癒す」という行為は、実際の水で肉体の渇きを潤すだけでなく、霊的な意味でも用いられてきました。イザヤ書の44章1-3節、55章1-3節を見てみましょう。

「1今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。2あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。3わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。
』」

「1ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。2なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。3耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。」

イエス様のことばを聞いたユダヤ人全員が、イエス様が「聖書が言っているとおりに」と言われている箇所が、預言者イザヤを通して語られた神様のことばであることに気が付いたはずです。そして、イスラエルの民はまだ霊的な意味で、水が注がれるという体験をしていませんでした。そのような事が起きることを待ち望んでいました。ですから、イエス様は、ご自身がその預言を成就することが出来るものであると宣言されたのです。そして、イエス・キリストを信じる者全員に聖霊を与えてくださることによって、実際にこの預言を成就されたのです。

【祈り】
「神様、あなたの聖霊を与えてくださるという約束を信じます。聖霊が本当に与えられているかどうかを『感覚』によって確かめることはしません。なぜなら、人間の感覚も感情も極めて不確かなものだからです。私は唯イエスさまのことばだけを信じます。そしてキリストを信じる私のうちに聖霊があたえられていて、泉のように湧き上がり、川のように流れていることを信じます。この聖霊によって、本当に生きるものとされたことを感謝します。イエス様のお名前で祈ります。」

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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