誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。
2013年4月3日(水)
「キリストは私たち有罪宣告を取り去るために苦しまれ、死なれた」
ローマ 8:34
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
【ポイント】
クリスチャンになっても、なんだか晴れ晴れとしない気分、なんとなくモヤモヤとした思いの中に生きている人はいないでしょうか。もちろん、毎日の生活の中での試練、困難の中にあるときは、重苦しい感覚の中に陥ることもあるものです。しかし、神様のとの関係を考える時に、スッキリとしない感覚に囚われているとしたら大問題です。自分の心がどのような状態にあるかにかかわらず、キリストを信じるあなたは、神様に100%受け入れられ、愛されているのです。キリストの十字架によって表された神様の愛でも満たされないとしたら、もはや、あなたを救う手段は残っていないことになります。
しかし、この大問題の解決方法は、実にシンプルです。それは、キリストの「真理」に生きることです。あなたがどのように感じていようが、キリストを信じるあなたは、完全に罪が赦され、義とされ、自分自身を含め、あなたを責め立てるすべてのものから自由にされているという「真理」、「約束」に生きることを決めるのです。あなたを罪と死に閉じ込めていた牢屋の戸は既に開かれているのです。その様子を想像してみてください。今日、あなたの心が「罪の意識」「暗い気持ち」に支配されていたとしても、あなたの鎖が解かれ、牢屋の戸が開け放たれている事実には何の変わりもないのです。
罪の囚人であったあなたは、牢屋の戸が開けられても、どこへ行って良いかわからないかもしれません。なぜなら、長年牢屋の中で過ごしたあなたは、牢屋の中にいることに慣れてしまっているので外に出ることに恐れを感じているかもしれません。牢屋の外にある本当の自由を知らないからです。しかし、キリストはただ牢の戸を開けただけではなく、その戸から中に入ってきてあなたを連れ出してくださったのです。
ここが、一番大切なことなのです。あなたは、一人ぼっちで自由にされたのではありません。むしろ、キリストが共にいて下さることによって、本当に自由な者とされたのです。いえ、「共にいる」という表現は生ぬるいかもしれません。イエス・キリストを信じるものは、「キリストと一つ」にされたのです。これこそが、救いの素晴らしさなのです。キリスト一つにされたあなたを罪に定める者はないのです。この「真理」と「約束」を堅く信じ続けるのです。今日のあなたの気分、体調などで「真理」が変わることはないのです。変わらないから「真理」なのです。
【祈り】
《ローマ6章》
5もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道