デイリーディボーション 5月15日(水)

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デイリーディボーション 5月15日(水)

2013年5月15日(水)

ヘブル人への手紙 9:8-10
8これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
9この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
10それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。

【ポイント】
①神様の計画に一切の無駄はない
パウロはモーセの律法はキリストへの信仰に導く「養育係」であると説明している通り、間違いなく必要なものであったけれども、いつかは必要なくなるものである説明しています。人間の成長を考えても、「離乳食」「おしゃぶり」「ベビーカー」など、その成長の時期を過ぎた者には必要無いと思われる物はたくさんあります。ステーキでも寿司でも食べることが出来るようになった大人が、依然として離乳食を食べ続けている姿は誰にでも異様に映るはずです。同じように、キリストが与えられた今、かつては無くてはならなかった律法、幕屋はもはや必要ないのですが、それはそれらが無駄であったことを意味するわけではありません。

②良心の呵責も、良心が鈍感になることも礼拝を邪魔するものである
正しい良心が機能している時には、自分の罪深さが神様との関係を邪魔していることに気が付かされます。なぜなら、自分は罪から離れるつもりが無いのに、神様からの祝福を求めるのは自己中心極まりない好意であることに気づくからです。このような状態では、いくら律法に従って捧げ物を行ったとしても、心の奥底では罪悪感に苛まれていますから、礼拝には喜びはありませし、それは真の礼拝とは言えません。

一方、良心が鈍感になると、自分の罪悪感すら感じなくなります。それでも捧げ物をささげ、礼拝を続ける理由は「周囲の目」があるため、形だけの礼拝でも続けなければならないのです。イエス様はこのように注意されました。「24だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、24供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5章)

③自分の努力、行いによっては「罪」の問題を解決することができないこと
このように「罪」の問題が解決されないままでは真の礼拝をささげることはできません。これは、形としての礼拝の問題ではなく、神様に近づくことができないという問題です。しかし、律法だけではこの問題を解決することができません。このために、キリストが与えられたのです。

【祈り】
《エペソ3章》
12私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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