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2013年7月17日(水)
ヘブル人への手紙 13:9
9さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。食物によってではなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。食物に気を取られた者は益を得ませんでした。
【ポイント】
①キリストにある自由とは
キリストを信じることによって、ユダヤ人は食物についての律法から自由にされました。しかし、それは好き勝手な自由ではなく、キリストの戒めに従った結果、律法が更新され、食物の規程が新しくされただけです。キリストによって明らかにされた神様の御心は、例えば、豚肉自体が肉体を汚すのではなく、「豚肉食べてはならない」と言われた神様に反抗することが人を罪に定めることなのです。パウロもこの点に第一コリントの8章などではっきりと教えています。「7
しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。」つまり、ユダヤ人クリスチャンが「偶像に捧げられた肉を食べることは、神様の御心に反するのではないか?」という「不安」、「罪悪感」を感じるのであれば、それは神様の御心(実際にはそうでなくても)をうやむやにすることとなるので止めるべきだと教えているのです。
身近な例で考えてみましょう。イエス様はお酒を飲むことは禁じていません。しかし、あなたが心のどこかで、お酒を飲むこと、アルコールの影響を受けることが神様に100%喜ばれているわけではないと心に感じるのであれば、お酒を飲むのをやめるべきであると教えられているのです。もちろん「酔うこと」を目的としてお酒を飲むことは、はっきりと禁じられていることは言うまでもありません。「盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(1コリ6:10
) ですから、食事、お酒をたしなむことが、神様に喜ばれ、栄光を表す事になっているという確信を持つことが大切なのです。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(1コリ10:31)
つまり、キリストにある自由とは、形骸化した律法を形だけ守っていく無意味な生活から自由にされ、キリストの真の律法に従っていくことなのです。クリスチャンはもはや律法の食物の規程に縛られる必要はないのです。しかし、依然としてキリストに喜ばれ、神に栄光を帰すると思われる食生活を追求していくことが求められていることも忘れてはなりません。ルール、規則の話ではなく、神様との関係の問題なのです。
【祈り】
《1テモテ4章》
2それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、
3結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。
4神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。
5神のことばと祈りとによって、聖められるからです。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道