デイリーディボーション 11月14日(金)

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デイリーディボーション 11月14日(金)

2014年11月14日(金)

2コリント 11:28-31
28このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。29だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。30もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。31主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられる方は、私が偽りを言っていないのをご存じです。

【ポイント】
①弱さを誇る
どの時代にあっても「弱さ」は誇るものではなく、恥じるものでしょう。実際、偽使徒たちは自分たちが「ヘブル人」「イスラエル人」「アブラハムの子孫」であることを「強さ」として誇り、コリントの教会のある人たちはそのようは表面的で、人間的な誇りを喜んで受け入れました。しかし、パウロは自分の弱さ、キリストために苦しんでいる時の、外面系には弱々しく見える姿こそがキリストに従う者の誇りであると考えたのです。そもそも罪人である私たちが、自分の強さを自慢したところで、人はそれを喜ぶかも知れませんし、それで人からの人気や信頼を獲得することができるかもしれませんが、そのような行為は全てをご存知である神様の前では全く無意味な行為なのです。さらに言えば、そのような行為は無意味なだけでなく、自分の罪を棚に上げ、自分の偽る大変罪深い行為なのです。

②私たちは何を誇っているのか
パウロの議論か気が付かされることは、「誇り」、または「プライド」自体は悪いものではないということです。パウロのプライドはキリストにあって「弱い」ことだったわけです。しかし、それはパウロにとっては悲しみではなく、反対に喜びだったのです。ですから、問題は私たちは何に喜び、何を誇っているのかということです。皆さんにとって自分の誇りとしていることは何でしょうか。そしてそれは、イエス・キリストにどのような形で関係しているのでしょうか。その誇りの原動力は、人間からの誉れでしょうか、それとも神様からの誉れ、神様に栄光が帰されることでしょうか。

再びピリピ書のパウロの証を聴き、私たちもパウロと同じ信仰、価値観導かれていくように祈りましょう。

【祈り】
《ピリピ3章》
5私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
6その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
9キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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