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2014年11月12日(水)
2コリント 11:22-25
22彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人です
か。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。23彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそう
なのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。24ユダヤ人
から三十九のむちを受けたことが五度、25むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあり
ます。
【ポイント】
①パウロの誇り
パウロは偽使徒たちが誇っていたポイント、コリントのある人たちが偽使徒たちを受け入
れてしまった理由となるポイントと、パウロ自身のそれを比較しています。ピリピ3章7節でパウロは自分の輝かしい血統、経歴についてこのように語っていま
す。「7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」しかし、昨日も学んだ通り、偽使徒たち
は自分たちの血統や経歴を誇り、コリント教会の中にはそのようなことに騙されてしまう人がいたのです。そこで、パウロは偽使徒たちが誇っているポイントに
ついて、あえて自分自身について説明しているのです。
「ヘブル人」ということばは、パレスチナに生まれ育ち、ヘブライ語(アラム語)を自
由に話す事ができる人、または純粋なユダヤ人の血統を意味していると思われます。「イスラエル人」とは、おそらく民族的にユダヤ人であるということとは別
に、聖書を信じ、律法に忠実に生きいているユダヤ人という社会的、宗教的な側面側面を強調した表現だと思われます。さらに「アブラハムの子孫」といのは、
神様の祝福の計画の中に生きる者、または、アブラハムのような信仰をもって生きる者という意味でしょうか。これらの表現の違いは定かではありませんが、こ
こで大切なことは、パウロが偽使徒たちの基準に沿っても、自分は使徒として全く劣ることがないということ証明しようとしていることです。
続 いてパウロは、「キリストのしもべ」という観点については、自分は偽使徒と比較にならないほど忠実な者であること主張します。それは口先だけの忠実さでは
なく、キリストのために、そして福音宣教のために受けた迫害、苦難の多さによって測られる忠実さなのです。そして、実は、この苦難こそがパウロに与えられ
た召しでもあったのです。「15しかし、主は(アナニアに)こう言われた。「行きなさい。あの人(パウロ)はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの
子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。16彼(パウロ)がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」
(使徒9章)
さて、私たちは、クリスチャンとしての歩みの中で経験する祝福だけでなく苦難すらも、神様から与えられた召しの一部であるという視点を持っているでしょうか。
【祈り】
《マタイ5章》
10義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
11わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道