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2012年10月10日(水)
ヨハネの福音書 7:32-36
32パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。33そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。34あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」35そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。36『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない』、また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」
【ポイント】
イエス様はご自分の十字架、復活、昇天について語りました。しかし、聞いていた人々はその意味を理解することはできませんでした。当然、イエス様は群衆に意地悪をしているのではありません。あえて、分かりにくい言い方をして、聞いているものに意味を考えさせているのです。他の福音書に記録されている喩え話も同じような効果がありました。イエス様は人間の性質をすべて知っていましたから、このような話し方をされるのです。というのも、人間は基本的に「自分の聞きたことしか聞かない」という性質を持っています。これは、「罪の性質」から来ている特徴です。自分中心の人間は、自分の興味のあること、自分の期待している内容には熱心に耳をかたむけますが、自分にとって重要ではないと感じることは聞き流してしまう傾向があります。家庭や職場でも自分としては何度も説明したと思っている事が相手に全く伝わっていないことを発見し、驚くことはないでしょうか。昔、自分の牧師に「今日のメッセージは自分にとってとても新鮮なものでした!」というような感想をはなしたところ、「良かったですね。でも、だいたい毎週同じ事をはなしているんだけどな・・・。」と言われてしまったことがあります。実際、過去のメッセージを思い出してみるとその通りでした。
実際、イエス様のことばを聞いて、ユダヤ人達は色々と考え始めます。中には「まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。」と、イエス様の昇天後の弟子たちの姿を予告するような話まで出てきました。イエス様はこのような反応を期待したいたのでしょう。人々が受け身ではなく、積極的に「このイエスは本当は何者なのか?」と考えるようになったからです。イエス様の本当の姿は、いい加減に求めても見つからないけれども、真剣に求めれば見出すことができるのが出来るのです。
【祈り】
「神様、あなたは真剣に求めるものには、惜しみなくご自身を現してくださいますから感謝します。あなたはいつも真剣に私たちを関わってくださる方ですから、私たちも同じ態度であなたに臨む者としてください。イエス様のお名前で祈ります。」
ライフチャーチ牧師 大谷 信道