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2014年9月24日(水)
2コリント 5:11-12
11こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。12私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。
【ポイント】
①さばきの座に備える
10節をもう一度確認してみましょう。「10なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」昨日も学びましたが、私たちイエス・キリストを信じる者はこの「さばきの座」で罪に完全な赦しと永遠の命を宣告されることになります。私たちは自分の力によってではなく、神様の恵みによって選ばれ、救われているからです。しかし、イエス様の愛を受け、イエス様を愛するという約束をした私たちはの歩みは、すべてキリストの前に明らかにされる時が来るとパウロは教えているのです。
キリストに忠実に生きる者はこのさばきの座は喜びの瞬間となります。しかし、キリストとの愛の関係においていい加減な生き方を続けた者にとっては、自分の愛のいい加減さが白日のもとに明らかにされる恐怖の瞬間となるのです。ですから、私たちの地上での歩みは、はさばきの座に立つための準備の時でもあるのです。
②主を恐れるとは?
主を恐れるとは、神様に恐怖心を覚えながら生きることではありません。実はその正反対なのです。神様を恐れて生きるとは、神様の愛を受け、神様の御心に従い、前向きに生きることです。キリストのさばきにおびえて生きることではなく、キリストのさばきの日を喜びをもって望むために、日々主と共に、前向きに生きることなのです。つまり、恐怖に動かされるのではなく、キリストの愛に動かされることが、本当の意味で主を恐れるということなのです。
パウロはこの点においては、ある種の自身が有りませひた。自分の利益のために生きる偽使徒たちとは違い、自分の歩みついては、主の日に責められることがないという確信があったのです。
ですから、私たちも、キリストの愛の関係において、やましく感じるようなことを排除していく必要があります。しかし、それは自分を誇るためではありません。キリストを口先だけでなく、心から愛していることをキリストに対して表し続けていくためです。
【祈り】
《1ヨハネ4章》
17このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
18愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道