デイリーディボーション 5月31日(金)

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デイリーディボーション 5月31日(金)

2013年5月31日(金)

ヘブル人への手紙 10:25
25ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

【ポイント】
①「いっしょに集まること」を大切にする
私たちクリスチャンが集まる最大の目的は「礼拝」であることは聖書の多くの箇所から明らかです。神様は信じる者が心を一つにして、神様のほめたたえることを喜ばれます。しかし、神様が集まることを望まれているのは「礼拝」という、神様と向き合う時だけではありません。「交わり」「奉仕」「弟子訓練」「伝道」の全ては、クリスチャンが集まり、その関わりの中で行われるべきものなのです。もちろん1人での祈り、ディボーション、学びも重要であることは言うまでもありません。「互いに愛し合いなさい。」というキリストの命令は、クリスチャンの生活のあらゆる場面で実践されるべき命令であり、それは「集まり」の中でのみ実現するものなのです。

②「裁きの日」に備える
最後の審判の日に対する期待が失われる時、クリスチャンの信仰は他の多くの宗教と変わらない「現世利益」だけを追い求める姿勢に陥ってしまいます。私たちクリスチャンにとっては、最後の審判は喜びの時であり、地上で経験するすべての苦しみ、悩みから開放される時です。キリストを愛し、信頼する者は、キリストと顔と顔を合わせて会うその日を切望しているのです。私たちが集まって励まし合う時の励ましの根拠は、「かの日が近づいている」事にあるのです。

③「裁きの日」は不安ではなく、平安をもたらす
最後の審判でキリストの前に立たされることに「不安」を覚えている人はいないでしょうか。そのようなクリスチャンの日々の生活も「不安」に満ちたものに違いありません。そして、そのような人はなんとか「合格点」がもらえるように、自分なりに頑張るのです。しかし、そのような人を駆り立てているのは、決して「キリストの愛」ではなく「不安」なのです。

一方、最後の審判を「平安」の中に待ち望んでいる人は、自分の不完全さ、罪深さについて正しく理解している人です。自分の力や努力では救いを手に入れることができないことを十分に理解し、自分の正しさに絶望し、キリストの救いだけに身を委ねる決心をした人です。ですから、クリスチャンになった後に、聖霊の働きによってさらに自分の罪深さに気がついても、希望を失うことはありません。反対に、無償で与えられた救いの価値を再発見し、そのキリストの愛を喜ぶのです。この歩みができると、困難、失敗、挫折を経験したとしても「平安」が離れていくことがないのです。なぜなら、人間的に感じる失敗や罪の意識は、イエス・キリストを信じるあなたの救いの約束とは、一切関係ないからです。罪の奴隷から解放されるとはそういう意味なのです。

ですから私たちの「励まし合い」は天国に入るための励まし合いではありません。既に与えられている約束を確認しあう「励まし合い」なのです。

【祈り】
《エペソ3章》
12私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。
13ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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