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2014年10月29日(水)
2コリント 10:7-8
7あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい。8あなたがたを倒すためにではなく、立てるために主が私たちに授けられた権威については、たとい私が多少誇りすぎることがあっても、恥とはならないでしょう。
【ポイント】
①物事の本質を見極める力をつける
7節の「あなたはがたは、うわべのことだけを見てみます。」という箇所は、文法的に「目の前のものを見なさい」と訳すことも可能で、多くの聖書は後者の訳を選んでいるようです。ただ、どちらにしても、パウロが自分がキリストから直接選ばれた使徒であり、同じようにコリント教会のクリスチャン達もキリストから弟子として招きを受けたものであることをしっかりと見ることを促しているのです。表面的な社会的な地位、肩書などを見るのではなく、キリストに選ばれたものとして生きていのかを見るように命令しているのです。
残念ながら、教会の中では地位、学歴、収入の高いという理由で、執事、長老に選ばれるというケースが存在します。もちろん、キリスト者としての生き方、教会への謙虚な仕え方が認められ執事や長老に選ばれた人の中に、社会の中で高い地位を得ている人がいることもあるでしょう。いずれにしても、私たちは「うわべ」ではなく、「目の前の事実」をしっかりと見ることが大切なのです。
②キリストの権威に従う
コリントの教会の中にはパウロの使徒としての権威を認めず、パウロの教えることに従おうとしない人たちがいました。パウロが心を痛めていたことは、自分の権威が蔑ろにされることではなく、自分がキリストから受けた福音、教えが無視されることだったのではないでしょうか。パウロの権威を認めるということは、パウロに権威を授けた方に従うということだからです。
これは、現代の教会でも同じようなことが言えます。牧師、長老、監督など、キリストの権威によって立てられている指導者に反発、反感を覚えることもあるでしょう。中には、自分の権威をふりかざしてしまう牧師もいるかもしれません。しかし、私たちにとって大切なことは、誰かを批判する前に、自分自身は「キリストに属している」者として、キリストの福音、使徒の教えに忠実に生きていのかということをはっきりと「見る」ことなのです。パウロが自分が与えられている使徒としての権威、責務はコリントの教会のクリスチャン、そしてパウロの手紙を読むすべてのクリスチャンが「立てられる」ためであり、そのことを心から願っているだけなのです。
実は、権威的なものに対して反発を覚えるということは、私たちの人間としての未熟さを表しています。誰かが、親、教師、上司などに対する反抗的な姿を見る時に、同情できる場面もありますが、多くの場合は反抗している人の幼稚さ、未熟さの問題の方が気になるはずです。例えば、教師に反抗して勉強しないとしても、その結果、責任は教師ではなく、自分の人生に返ってくることは誰でもが体験的に知っている事実ですね。人の権威についての心配よりも、自分の生き方の心配をすることが成長、成熟につながるのです。
【祈り】
《マタイ7章》
1人のあら捜しはいけません。 自分もそうされないためです。
2なぜなら、あなたがたが接するのと同じ態度で、相手も接してくるからです。
3自分の目に材木を入れたままで、どうして人の目にある、おがくずほどの小さなごみを気にするのですか。
4材木が目をふさいで、自分がよく見えないというのに、どうして、『目にごみが入ってるよ。 取ってあげよう』などと言うのですか。
5偽善者よ。 まず自分の目から材木を取り除きなさい。 そうすれば、はっきり見えるようになって、人を助けることができます。
(リビングバイブル)
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道