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2012年10月26日(金)
ヨハネの福音書 8:55-59
55けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。56あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」57そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」58イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」59すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。{そして彼らの間を通り抜けて進み、通り過ぎて行かれた。}
【ポイント】
58節の「わたしはいる」という表現は、以前学んだ「わたしはある」という表現と同じです。ここで、イエス様はご自身を完全に表されました。「わたしはある」だけでなく「アブラハムが生まれる前から」という表現が加われば、ユダヤ人達はイエスが「自分は唯一であり、創造主、全知全能の神である」と主張しているのだと100%確証を持ったはずです。イエス様の信じないユダヤ人にとってはイエス様の発言は神様を冒涜することば以外の何物でもないと感じました。ですから、彼らの怒りは最高潮に達し、殺してやりたいという気持ちが、行動に移るところまできてしまいます。
イエス様は、このような反応が起きることを最初から知っていました。多くのユダヤ人がつまずきを覚えることも分かっていました。福音書を初めて読んだ人は、イエス様は読めない人であるとの印象を受ける人もいるでしょう。しかし、そうではないのです。むしろ、その全く反対だったのです。多くの預言者が、神様から預かった言葉を、人々に伝えれば間違い無く反感や怒りを買うことを分かっていながら、神様からの召に応え、預かったことばを語ったのと同じなのです。
このように、イエス様の福音は間違いなく「良い知らせ」なのですが、それを初めて聞く者にとっては決して耳障りの良いものではありません。ですから、私たちは、福音を語る時に、聞いた人がつまずかないように最善を尽くします。しかし「罪の悔い改め」「自分を捨て十字架を負うこと」「キリストのことばに従うこと」「時間・お金・その他の全てにおいて、神様を一番にすること」など、罪の性質を持っている私たちが聞く時に、抵抗や反感を覚える部分について決して妥協したり、水で薄めるようなことは絶対にしてはならないのです。なぜなら、イエス様が決してそのようなことをなさらなかったからです。
イエス様は、ご自身の愛と悔い改め、献身の必要などすべてを明らかにした上で、私たちを招かれています。ですから、イエス様は私たちをこう招くのです。「24だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
」(マタイ16:24-25) 決して無理強いはしません。しかし、私たちが神様の愛の支配の中で本当の幸せと平安の中に生きることを願われているのです。
【祈り】
「主よ、イエス様を信じられなかったユダヤ人の気持ちがよく分かります。イエス様を主と認め、その愛に従う時に、私たちの罪深い肉体、心が抵抗するからです。『そんなに真剣にならなくてもいいんだよ。』『神とは適当に付き合っておいても得することがたくさんるよ!』というささやきがあるのです。その声を無視し、イエス様を神様として信じ、従うことは痛みを伴うのです。しかし、私たちの代わりに本当の痛みを体験して下さったのはイエス様でした。イエス様の苦難と比べれば、罪深い自分の欲望を十字架につけることは何と簡単なことでしょうか。今日も、イエス様の十字架の愛に目を留めます。その愛の大きさに驚きながら1日を過ごします。ですから、私の心を守ってください。イエス様のお名前で祈ります。」
ライフチャーチ牧師 大谷信道