デイリーディボーション 10月18日(木)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 10月18日(木)

21イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」22そこで、ユダヤ人たちは言った。「あの人は『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない。』と言うが、自殺するつもりなのか。」23それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。24それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」

【ポイント】
24節に注目しましょう。新共同訳聖書では「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
と訳されています。新改訳聖書と比較すると「『わたしはある』ということを信じないならば」という部分が大きく違うことに気が付きます。『わたしはある』という部分は意味は分かりにくいのですが、元々のギリシャ語の直訳なのです。

それでは、新共同訳聖書の翻訳者(委員会)は、なぜ日本語としては不自然な『わたしはある』という訳を選んだのでしょうか。実は、『わたしはある』という表現は、聖書の中で極めて重要な意味を持っているからです。皆さんは他に似た表現が用いられている箇所を思い出すことができるでしょうか。そうです。『わたしはある』とは出エジプト記の3章で神様がモーセに教えられたご自身の名前です。《13モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」》

つまり、イエス様はここで「私という1人の人間が言っていることを信頼しなさい」と言われているのではなく、「私が神であることを信じなさい」と言われていることになります。ご自身が神と同様の者であり、神そのものであることを公に宣言しているのです。『わたしはある』という表現は日本人の私たちにはピンと来ませんが、ユダヤ人にとっては神様がモーセに表されたご自身の名前であることは明らかだったはずです。ですから、次の25節では「いったい、お前は何者なのだ!」という質問が返ってくるわけです。

ヨハネの福音書は「イエスが何者であるのか」という疑問に、大変丁寧に少しずつ答えてくれています。しかし、実はその答えは2つしかありません。「神を冒涜するペテン師」か「神」のどちらかです。それ以外の答えはないのです。イエス様の「わたしはある」という宣言がそれ以外の選択肢を否定しているのです。イエス様は「良い教師」でも「預言者」でもあり得ないのです。イスラム教ではイエスが預言者の1人として教えられていると聞くことがありますが、そのような理解はあり得ないのです。イエス様の宣言に基づけば、イエス様に対して私たちが取るべき態度は、詐欺師として糾弾または無視するか、神として信仰するかのどちらかしかないのです。ですから、ユダヤ人のイエス様に対する迫害・殺意は、イエスを信じない者としての正しい反応であったわけです。自分が神であると宣言した人間を預言者の1人と数えることなどあり得ないからです。イエス様は、自身が何者かという議論に玉虫色の解決の余地は残されなかったのです。

【祈り】
「神様、今日もあなたを信じます。あなたは御子を遣わすことによってご自身を現してくださいました。イエス様を知ることによって、あなたの愛をさらに知る者としてください。今日もあなたの愛の中に安心して仕事や勉強に取り組む者としてください。そして、今日もあなたを1番として従う者としてください。人生の主であるイエス様のお名前で祈ります。」

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


side_worship side_info