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2014年11月4日(水)
2コリント 11:4-6
4というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。5私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。6たとい、話は巧みでないにしても、知識についてはそうではありません。私たちは、すべての点で、いろいろな場合に、そのことをあなたがたに示して来ました。
【ポイント】
①みことばに忠実であること
今日の箇所から、コリントの教会の中でどのような混乱が起こっていたのかを垣間見ることができます。まず第一に「別のイエス」について教える者がいたということです。恐らく、キリストの輝かしい栄光の部分だけが語られ、キリストの弱さ、恥辱、迫害、苦難、死について教えられていなかったのではないかと思われます。この点については現代に至っても依然として変わっていないようです。この世の人々は「ためになる話」「役に立つ話」「人間的な励まし」「経済的な祝福」などが大好きです。多くの牧師が人々のニーズに応えるために、役立つ話のために四苦八苦しています。日々の生活にすぐに活かすことができる具体的な「適用」教えてくれる説教か重宝されています。このような話から描き出されるイエス様の姿は、七福神と大差無いものになってしまうのです。
さらに、コリントの教会では「異なった霊」を受けるということが起きていたようです。もしかすると、聖霊の働きとは別の恍惚状態に酔いしれている状態を指しているのかもしれませんが、それは定かではありません。ただ、真の霊を受け、真の霊に導かれているかどうかは簡単に確かめることができます。皆さんがよくご存知のガラテヤ5章にある通りです。私たちがキリストの霊に導かれていれば、その結果として「22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制」という実が結ぶはずなのです。どのようにダイナミックな霊的な体験をしている人がいたとしても、その人が家庭、教会の人との関わりの中で、御霊の実を結んでいなければ、それはキリストの霊の働きでないことが分かるわけです。
最後に上げられているのが「異なった福音」です。これも具体的に何を意味していたのかは明確ではありません。ガラテヤの教会のように、救いのためには割礼を受け、ユダヤ人として律法を守ることから始めるべきであるというような「ユダヤ主義的な教えが入り込んでいたのか、または別の具体的な救いについての間違った教えが蔓延していたのかは不明です。しかし、究極的には最初の「異なったイエス」「異なった霊」と同じで、イエス様が教えられたこととは全く違う教えが入り込んでいたことは明らかです。
しかし、パウロはそれらについてすべてキリストから直接受けたのです。ここに、彼の使徒としての権威があるのです。パウロの権威は、彼がキリストのみことばに忠実であり、キリストの福音について間違いなく伝えることができるという点にあるのです。実は、使徒が存在しない現代においても、おなじ権威をもっているものがあるのです。それは聖書です。私たちは、この聖書以外に正しいキリスト、正しい霊、正しい福音について知ることができないのです。反対に、聖書に記されていないことについては、私たちが信仰を置く根拠がないことになります。
ですから、私たちも聖書に忠実であるということを追求し続けようではありませんか。
【祈り】
《マタイ28章》
18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道