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2013年6月12日(水)
ヘブル人への手紙 11:8-9
8信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。9信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
【ポイント】
①神様の指示のパターンを知る
「私は、昼食にうどんを食べるべきか、そばを食べるべきかという事まで神様に聞き、示された方を食べます。」というようなクリスチャンに会ったことがあります。有名な牧師が似たようなことを教えているのを聞いたこともあります。残念なことに、多くのクリスチャンがそのような話を聞くときに、その人が「霊的」であると感じ、真似をしたりするのです。しかし、聖書を開いて、神様が人間をどのようにして召し、用いているのか、そのパターンを学ぶ時に、神様は必ずしも詳細な指示を出す方ではないことが分かります。アブラハムの召命もその典型的な例です。神様は天地万物の支配者ですが、人間のすべての行動まで監視し、言うことを聞かせる「支配的」な神ではないのです。
②信仰とは自分の意思で神様の御心を選びとることでもある
このことは、マタイの福音書25章に出てくる「忠実な僕の譬え」からも明らかです。主人は3人の僕たちに財産を預け、旅に出ます。具体的な指示は何も出しません。しかし、二人の僕は預かったお金を倍にして主人に返し、忠実な僕と呼ばれました。言われたことしかしない僕、指示を出されてからでなければ動けない僕は、忠実とは呼ばれないのです。二人の僕は主人から財産を増やすように命令されたのではいのに、自分の意思で主人が喜ばれる方法を考え、失敗を恐れずに実践したのです。アブラハムも、様々な失敗を犯しながらも、約束の地へと出て行ったのです。
③神様の私たちに対する信頼を知る
ですから、先ほどの昼食のメニューすら神様に祈り求める人は、信仰的などではないということが分かります。何が本当に神様を喜ばせるのかを完全に勘違いしてしまっているのです。そして、何が神様に忠実であるのか、その本当のポイントを理解できていないのです。例えば、思春期の子どもは親から「今日は何時に帰ってくるの?」などと細かいことを言われる度に自分は信頼されていないと感じ、苛立ちを覚えるものです。しかし、子どもが細かい事を言わなければ誘惑に流されてしまう弱さを持っている事も事実です。しかし、子どもの成長とともに、子どもの判断に任せて良い部分が出てきます。反対に、子どもが親から指示されずに、自分で正しい事を選択できるようになってきたら、それは子どもの成長の証でもあるわけです。
神様が私たちを支配的に管理したり、指示を出したりしない理由は、私たちを信頼しているからです。もちろん、私たちが度々失敗することも知っていながら、それでも信じてくれているのです。放蕩息子の父親は、息子が一時的に自分を離れてしまうことを知りながら、自分の財産を分け与えました。しかし、息子が必ず自分のところに、息子の意思で戻ってくることを信じていたのです。これが、天の父の私たちに対する信頼なのです。この信頼は私たちが優等生になるという期待ではありません。私たちが自分の意思で天の父を愛するようになり、天の父の御心を行うようになるという期待と信頼なのです。
神様はあなたを僕とし受け入れ、愛し、信頼して下さっているのです。
【祈り】
《ヨハネ15章》
16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
ライフチャーチ牧師 大谷 信道