デイリーディボーション 10月19日(金)

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デイリーディボーション 10月19日(金)

25そこで、彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。26わたしには、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」27彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。28イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。29わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」30イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。

【ポイント】
「あなたはだれですか。」繰り返しになりますが、イエスに関する最も重要な質問です。福音書はこの疑問に答えるべく記されているからです。福音書(聖書)を「人生の手引き」「教訓集」として、自分の人生に役立つ何かを求めて読んでいる人がたくさんいます。残念ながら福音書を自分の利益のために読んでいる人は、「イエスはあなたにとって何者であるか」という質問を素通りしてしまうのです。6章26節で、イエス様の「しるし」によって満腹になった群衆に対して、イエス様は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」と言われたのを覚えているでしょうか。彼らは「しるし」という証しによってイエス様がキリストであることを悟らず、単に自分の腹を満たしてくれる便利な人として着いてきただけだったのです。ですから、もし、あなたが「イエス様の事をもっと知りたくてしょうがない」「イエス様をもっと愛したい」「イエス様に人生をささげたい」という思いに駆り立てられていないとしたら、要注意なのです。ここにいるユダヤ人でさえ、イエスが何者であるのかという1点に興味が集中しているのです。しかし、これはイエス様と真剣に向き合う時の自然な反応なのです。

イエス様が自分の罪を赦し、永遠のいのちを与えてくれ、自分の祈願に答えてくれる便利な人になってしまっている人はいないでしょうか。バブル時だけに使われた死語なのかもしれませんが、イエス様とあなたの関係が、自分に利益をもたらす「貢ぐ君※」で、天国に連れてってくれる「アッシー※」のようなことになっていないか自分を吟味する必要があります。

あなたとイエス様の関係はどのようなものでしょうか。その関係は日々深まって言っているでしょうか。与えられことばかりだった状態から、イエス様に進んで仕え、捧げていく人生へを変えられてきているでしょうか。マタイ16章のイエス様の招きのことばをもう一度確認しましょう。「24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

「自分を捨て」「自分の十字架を負い」とは、自分にとってどの様な生き方を指しているのでしょうか。自分の思い通りの生き方をしながら、イエス様についていくことは出来ないということですね。しかし、自分を捨て、自分の十字架を負う時に、自分では想像もしていなかった祝福、幸せがあるということでもあります。

【祈り】
「主よ、今日もあなたのことを考え、あなたの愛を確認し、あなたの御心を行なっていくことを私の喜びとしてください。夫が妻、妻が夫に忠実であることが求められるように、私に対していつも誠実でいてくださるあなたに対して、愛をもって応えるものとしてください。あなたといい加減な付き合い方をしないように、あなたを便利に利用するようなことがないように、今日もご聖霊をもって助けてください。あなたを愛します。イエス様のお名前で祈ります。」

※インターネット上で見つけた「日本語俗語辞典」によると、下のように定義されています。
「貢ぐ君とは好きな女性に金品や品物などをせっせと貢ぎ、女性の気を引こうとする男性のこと(食事をせっせと奢るメッシー君は貢ぐ君の一種ともいえる)。貢ぐ(みつぐ)だけで人名っぽく呼ぶこともある。貢がれている女性が特に深い仲ではなく、単に貢ぐ君としか考えていないという意志を示すなど、対象を嘲ったり、蔑んで使われることが多い。」
「アッシーとは女性が足(移動手段)として考えている男性を意味する。アッシーと女性の間には恋愛関係はおろか、友情関係すらなく、仮に友達としての付き合いがある場合でも、足代わりという意識のほうが強い場合にしかアッシーとは呼ばない。主にバブル期の女性が使っていた言葉でアッシー君ともいう。」

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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