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2013年5月2日(木)
ヘブル人への手紙 7:1-3
1このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。2またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。3父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
【ポイント】
ヘブル書の著者は創世記14章に出てくる「メルキゼデク」と「イエス・キリスト」の類似点を説明しています。それは、メルキゼデクがイエス・キリストの「予型」であることを示すことによって、イエスが間違いなくキリストであり、神様の計画であったことを証明するためです。
①メルキゼデクが神様から立てられた特別な祭司であったように、イエスも神に立てられた永遠の祭司である。
メルキゼデクに関して詩篇110篇4節でこのように記されています。「主は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。』
」 この箇所はメシアに関する預言だと考えられます。つまり
「あなた」とは「メシア」であると考えられます。つまり、イエスがキリストであれば、イエスは同時に「とこしえの祭司」であるというのが、旧約聖書の預言、約束であるということです。
②メルキゼデクは「義の王」「平和の王」と呼ばれたが、本当の義と平和を打ち立てた王はイエス・キリストである。
2節にある通り、ヘブル語の「メルキ(メルク)」は「王」、「ゼデク」は「義」という意味です。つまり、「義の王」という意味の名前だったということです。さらに「サレム」という地名は「エルサレム」を指していると考えられますが、彼はその地域を治めていた王であったということです。そしてヘブル語の「サレム(シャローム)」は「平和」を意味しますから、彼は「平和の王」でもあったということです。しかし、ここで重要なのは、詩篇110篇を考え合わせると、旧約聖書の約束は来るべきメシアは「義の王」であり、「平和の王」であるということです。イエスがそれらの条件を満たすことが出来なければ、メシアであると認めることが出来ないわけですが、他の新約聖書の証言では、イエス様は一切罪を犯さず「神様の義」を全うされ、信じる者に神様との「平和」を与え、その心に「平安」を与えられた方であったことが確かです。
③ゆえに、イエス・キリストはメルキゼデクをはるかに上回る「祭司」であり、「王」である。
これが、ヘブル書の著者のポイントです。ちょっと難しく感じる箇所ですが、ポイントさえ押さえておけば細かい点は理解できなくでも良いのです(もちろん、詳細まで理解できるに越したことはありませんが)。「予型」が「条件」であるという話をしました。「本物」は「予型」をはるかに上回る必要があります。反対に上回らなければ、「本物」と呼ぶことはできません。ですから「予型」とは、ハードルのようなものなのです。ハードルを越えるためには、ハードルよりも高く飛ばなければなりません。しかし、イエス・キリストの目撃者の証言からすると、イエス様がすべての点においてメルキゼデクよりも優れた方であり、メルキゼデクというハードルを見事に越える方であることが分かるのです。
【祈り】
《1ペテロ2章》
22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道