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2013年7月18日(木)
ヘブル人への手紙 13:10-13
10私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、この祭壇から食べる権利がありません11動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。12ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。13ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
【ポイント】
①「影(古い生き方)」から決別する
背景を少し学びましょう。レビ人は幕屋(神殿)に仕えるという仕事が与えられているため、自分たちの土地を所有することが許されていませんでした。当時の主要産業は農業、牧畜でしたから、土地を持たないレビ人は自分の手で食料(収入)を得ることが出来ませんでした。そこで、レビ人たちには、十分の一の供え物が主からの相続財産として与えられました。(民数記18章)
さらに、祭司たちは捧げられた供え物から食べることを許されていました。しかし、例外的に「聖所での贖いをするためにその血が会見の天幕に持って行かれた罪のためのいけにえは、食べてはならない。」という規程がありました。
ヘブル書の著者はこの捧げ物とイエス様の十字架の類似点を指摘しているわけです。ユダヤ人(祭司)が聖所のあがないのために捧げられた捧げ物が祭司たちが食べることができなかったように、神殿の外で十字架にかけられ、血が流されましたイエス・キリストの肉を食べることはできないと主張しているのです。つまり、ユダヤ人は律法と決別をしない限り、律法の規程に縛られている限り、完全な清めと贖いをもたらすイエス様を受け入れることができないということなのです。
②キリストを選ぶとは、はずかしめの道を選ぶこと
ユダヤ人にとっては、律法を捨て、神殿の外に出て行くことは大変勇気のいることでした。ユダヤ人としてのアイデンティティー、プライドを捨て、はずかしめを受ける覚悟が必要でした。しかし、ヘブル書の著者はその道を勧めるのです。なぜなら、イエス・キリストこそがそのはずかしめを受けられたからです。
日本人である私たちにもたくさんの共通点があります。イエス様を信じるとは、それまで自分が築いてきた地位、キャリア、プライド、アイデンティティーを捨て、キリストの弟子として従うことだからです。この選択は、尊敬されることよりも、馬鹿にされたり、反対されることの方が多いでしょう。しかし、考えてみましょう。イエス様の最初の弟子たちもユダヤ人でしたが、現代に生きる日本人がイエス様に従うことは、ユダヤ人がイエス様を信じるよりもずっと楽なはずなのです。彼らは、家族、先祖、国、伝統、習慣、土地、仕事など、すべてを捨て去り、文字通り「はずかしめ」を負ってイエス様に従うことが求められたのです。そこまでしてイエス様に従った人々の姿は私たちにとって大きな励ましなのです。
【祈り】
《ヨハネ6章》
53イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道