デイリーディボーション 6月13日(木)

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デイリーディボーション 6月13日(木)

2013年6月13日(木)

ヘブル人への手紙 11:10-12
10彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。11信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。12そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

【ポイント】
①待ち望んだものが手に入るとは限らない
信仰とは神様の計画が実現することを信じることです。ですから、自分が生きている間にすべてが実現するとは限りません。ヘブル書の著者はアブラハムが「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた」と記していますが、実際にはアブラハムは死ぬまで天幕(テント)に住んでいました。アブラハムという名前は「多くの父」という意味ですが、アブラハムとサラとの間に生まれた子どもはイサク一人でした。後世の人は彼らの子孫が砂のように増やされたことを知っていますが、アブラハムもサラもそれを見ずに死んでいったのです。

②「成功」の定義を変更する
この世的な価値観をアブラハムに当てはめれば、彼は決して成功者とはいえないでしょう(大変裕福ではありましたが・・・)。ユダヤ人、クリスチャンの間ではアブラハムは「ヒーロー」として扱われますが、その理由は、その後のイスラエルの民の繁栄を知っているからです。全人類の祝福というゴールから見る時に、アブラハムの目標に対する貢献はイサク一人でした。たった一人です。しかし、アブラハムは信仰者の模範として、神様の祝福を受ける者の模範とされています。つまり、神様の目から見る「成功」は、この世の人々の「成功」とは全く違うということなのです。天の国においては、目の前の状況とは関係なく、自分の実力とは関係なく、必ず神様が計画を成就してくださると信頼し続ける者が多くの祝福に預かるものとなるのです。その最も分かりやすい例が、アブラハムなのです。

③信仰の歩みは本来「地味」なもの
アブラハムの歩みは決して華々しいものではありませんでした。75歳で全人類の祝福の約束を受け、イサクが与えられたのは100歳です。繰り返しになりますが、25年間の彼の数の上での成果はイサク一人です。しかもそれは、彼の努力によって与えられたものではなく、神様によって与えられた子どもです。しかし、彼は、イサクが与えられるのを寝て待っていたわけではありません。積極的に神様を信頼し、約束を待ち望み、忍耐し続けたのです。教会の歩み、クリスチャンの歩みも同じです。神様の御心に沿い、正しい方向に歩み続けたとしても、目に見える祝福が直ちに現れるとは限らないのです。神様が望まれていることは、その結末を自分の目で見ることができなくても、神様の計画の成就のために貢献し続けることです。
私たちライフチャーチの歩みは、それがどのように小さいものであっても神様の計画の成就に貢献しているのです。例えば、友人・同僚と昼食を共にするという歩みも、長い目でみれば確実に神の国の建設に貢献していることを忘れてはなりません。

【祈り】
《ルカ16章》
10小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
《マタイ25章》
21その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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