デイリーディボーション 10月22日(水)

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デイリーディボーション 10月22日(水)

2014年10月22日(水)

2コリント 9:1-5
1聖徒たちのためのこの奉仕については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう。
2私はあなたがたの熱意を知り、それについて、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年から準備が進められていると言ったのです。こうして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させました。
3私が兄弟たちを送ることにしたのは、この場合、私たちがあなたがたについて誇ったことがむだにならず、私が言っていたとおりに準備していてもらうためです。
4そうでないと、もしマケドニヤの人が私といっしょに行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。
5そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。

【ポイント】
①体裁のためではない
4節の「恥をかくことになるでしょう」という表現だけを見ると、パウロが自分たちの「格好」「体裁」のために献金の準備を進めるように指示しているように見えます。ただ、パウロが単に自分やコリントの教会のプライドを保持するためにそのような事を命じているとのではなかと考えるのは「下衆の勘繰り」というものです。というのは、パウロが自分のプライドを気にしているとは到底考えられないからです。この手紙よりも時期が後になるものですが、1テモテ1章15節でパウロはこのように告白しています。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

ただ人間的な感覚からすれば、もしコリントの教会が献金の準備ができていなかったとすれば、自分たちが恥ずかしい思いをすることになることは容易に想像ができます。パウロは自分の顔に泥が塗られることは気にしていないとしても、コリント教会の人々はパウロの顔に泥を塗るようなことをすれば、周りの教会からの非難を受けることになるということも想像ができたでしょう。ですから、パウロは人間的な感覚に訴えて、コリントの教会の人々に計画を全うするように励ましているのです。

②この献金の目的を思い出す
以前、8章14節で、この献金の目的の一つはユダヤ人教会と異邦人教会の一致を深めることであることを学びました。ですから、この働きがいい加減なものになったり、なし崩し的に無くなってしまったとしたら、そこで起こる一番の問題はユダヤ人教会と異邦人教会の一致、交わりが後退してしまうことでした。献金、募金は命令や義務を伴う税金とは全く異なり、信仰、愛といったささげる者の自発的な思いによって成り立っているものです。ですから、この働きを成功させる唯一の方法は、それぞれの教会が「奮起」させられ、「惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意」することにありました。嫌々ながら集められた募金は、受け取る側としても喜ばしいものではなくなってしまうからです。今日のパウロの表現も、なんとかコリントの教会の人たちを再度奮い立たせ、この素晴らしい愛の一致のために計画を完成させたいというパウロの思いが込められているのです。

③リーダーが直面する難しさ
ただ、これまでも学んできたように、行う者が痛みや犠牲が伴う働きは、放っておくと楽な方に流れてしまうと現実があります。私を含め、多くの牧師は、献金や募金などのささげ物について、教えたり、勧めたりすることに抵抗を覚えます。なぜなら、本来、ささげ物は人から言われて行うものではなく、神様からの恵みの応答として行うものだからです。

わたしたちは、自分のささげ方を見れば、理屈抜きに、自分と神様の関係の現実を見ることができます。誰から言われなくても、それが神様に与えられている恵みへの充分な応答であるのか否かを、自分がよく知っているのです。ですから、ささげ物は、他の誰かから指図を受ける必要のないものなのです。

ただ、コリントの教会で起こっていたように、本人たちの意思だけに任せておくと、様々な誘惑に負け、流されてしまうということも現実なのです。ここに、リーダーにとっての難しさがあるのです。ささげ物には、大変強い誘惑の力が働きますから、義務感からではなく、喜びによって捧げていくように導くことはとても大変なことなのです。

これは勉強、仕事、スポーツ、芸術などにも共通しています。誰かに強いられたり、義務感の中で行っている間は、ダメなのです。教師、上司、コーチなどからうるさく言われている間は、伸びないのです。かといって、そのような導きなしに、自主性だけに任せておいても、多くの人は自分を律することができず、楽な方に流れてしまうのです。ですから、パウロのようなリダーシップの取り方も必要になってくるわけです。そのような導きは、惜しむ者、義務感を感じる者は「律法主義」と感じますが、喜びの中でささげる者は「励まし」となるのです。

祈りの中で、ダビデの告白に聴きましょう。

【祈り】
《歴代誌第一29章》
17私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。

アーメン

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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