デイリーディボーション 10月25日(木)

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デイリーディボーション 10月25日(木)

48ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」49イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。50しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。51まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」52ユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊につかれていることが、今こそわかりました。アブラハムは死に、預言者たちも死にました。しかし、あなたは、『だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を味わうことがない』と言うのです。53あなたは、私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。そのアブラハムは死んだのです。預言者たちもまた死にました。あなたは、自分自身をだれだと言うのですか。」54イエスは答えられた。「わたしがもし自分自身に栄光を帰するなら、わたしの栄光はむなしいものです。わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である』と言っています。

【ポイント】
「あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれている」という言葉からユダヤ人がいかに腹を立てているのかを知ることができます。一見するとユダヤ人は議論をしているように見えますが、実際には、子どもが「お前の母ちゃん出べそ!」と全く事実と異なる事を持ちだして相手を馬鹿にするのと同じレベルになってしまっています。なぜなら、これまでイエス様が行った「しるし」、語られたことばを考えあわせ、理性的に結論を下すのであれば、イエス様が悪霊につかれた者となるはずがないからです。イエス様もそのことを知りながら、丁寧に「わたしは父を敬っています」と対応されました。つまり、悪霊につかれた者であれば、昨日の箇所のように神様の御心に反した行いをするはずであるが、これまでのご自身のことば、行動すべてにおいて、一切聖書に記されている神様の御心に反したことはしていない故に、ご自分が悪霊につかれているのではないことを確認されたのです。イエス様は理性を失っている相手に対して、忍耐強く冷静に対応し、きちんと理性をもって語られたのです。

そのようなユダヤ人達の状態を知りつつ、イエス様はさらに一歩進んで「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」と、ご自身について語られます。当然、この発言に対してもユダヤ人から「お前は何様のつもりなのだ」という強い反論が返ってきます。なぜなら、ユダヤ人が知る限り、永遠のいのちを与えることができる預言者は歴史上1人もいなかったからです。死人をよみがえらせた預言者はいました。しかし、ユダヤ人達はそれは肉体の一時的ないのちのよみがえりであり、それをした預言者自身も死んでしまったことを知ってたからです。そこで、ユダヤ人達は「デタラメを言うな」という意味でイエス様を罵ったのです。

ユダヤ人の皮肉を込めた「お前は何者なのか?」という質問は、実は私たちにとっても最も重要な質問です。なぜなら、私たちの信仰は「イエスがキリストであると認めること」から始まるからです。そして、クリスチャンである私たちは「イエスはキリストである」と答えます。しかし、この答えは、単なる答えではありません。イエスをキリストをして認めるということは、イエス様を人生の主と認め、主との正しい関係の中に生きることを意味します。ですから、イエス様は「だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」と言われるのです。当然、イエス様のことばを100%守った人だけが永遠のいのちを得ることができるという意味ではありません。むしろ、イエス様のことばに忠実に従っていきたいと思う、イエス様に対する信頼、忠誠、愛のことを言っているのです。

例えば、夫婦を例にあげましょう。夫婦は当然のことながら、互いを「夫」「妻」として認識しています。結婚した相手が本当に自分の夫、妻であるのかを疑う人はいません。しかし、夫婦は互いを夫、妻としての「肩書き」「地位」を認めていれば良いのでしょうか。そうではありません。夫と妻が互いに愛し合い、受け入れ合い、赦し合い、尊敬し合う関係を持っている時に、初めて本当の意味で夫婦となるのです。ですから、私たちもイエスを「自分の救い主」と認めているだけでは事実上何の意味も持たないのです。夫婦が互いに愛しあって初めて夫婦とされるように、イエス様を愛し、主として全幅の信頼を置き、そのことばに服従していくという関係があって初めて「イエス様は信じる」ということになるのです。

ユダヤ人の問題は、単にイエス様を信じようとしないという態度だけではありませんでした。イエス様の目から見て、一番悲しいことは、ユダヤ人たち(特に指導者達)が「天の父」と先に述べたような愛の関係の中に生きていないことでした。宗教活動、伝統、習慣を守ることには熱心でしたが、神を愛するという最も重要な関係が欠落していたのです。それはクリスチャンにとっても他人事ではありません。今日もしっかりと主を見つめ、主に聞き、主に従い、主の愛に身を委ねることに全力をかたむけましょう!

【祈り】
「主よ、あなたを主と認めます。あなたを崇めます。あなたを愛します。わたしは、イエス・キリストにあって、あなたに約束をしました。あなたは最初から私を愛することを決め、愛し続けることを約束してくださっています。その愛に応えるものとして生きていきます。愛するあなたのことをもっと知りたいです。あなたの愛、あなたの思いをさらに求める者としてください。イエス様のお名前で祈ります。」

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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