デイリーディボーション 10月23日(木)

誰でも気軽に集える、明るく、カジュアルな雰囲気の教会です。

デイリーディボーション 10月23日(木)

2014年10月23日(木)

2コリント 9:6-9
6私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。7ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。8神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。9「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

【ポイント】
①豊かにささげる者は、豊かに与えられる
多くの牧師がささげ物の話に躊躇をおぼえる別の理由は、カルト的教会、カルト宗教で献金についての話が多くされていることにあります。ですから、自分がカルトの教祖のように、お金のこのにしか興味がない人間だと勘違いされたくないと思ってしまうのです。しかし、ささげることについて牧師が教えなければ、信徒たちはささげることの素晴らしさについて知る機会を逸してしまうことがあるのです。そして、現代の日本の教会はそのような傾向が強いのではないかと思います。

ですから、私たちはささげることについて、そこから与えられる祝福について教えること、学ぶことを怠ってはならないのです。マルコ10章では、ある青年がイエス様にこのように質問します。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」すると、「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。『あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』」しかし、「・・・彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
」 イエス様は、恐れることなく、与えること、ささげることについて、そしてその祝福について教えられているのです。同じようにパウロは、与えること、ささげることの祝福を「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。」と証しているのです。

ですから、ささげもの、献金の話ばかりする教会はカルトの可能性がありますが、その話を全くしない教会も、イエス様、パウロのことばを無視する不健全な教会であると言わざるをえません。どちらも、神様の喜びではなく、人間的な喜びを中心にしてしまっているところに問題があるのです。

②神は喜んで与える人を愛される
このポイントについて、私は、神様が定められた「什一献金」が大変良いパロメーターになっていると思っています。神様を愛していると言いながら、収入の10%を神様にお返しすることに躊躇を覚えるとしたら、その愛はどのようなものでしょうか。恋人のために、趣味のために、嗜好品(絶対必要ではないもの)のために収入の十分の一を喜んで使う人はたくさんいることでしょう。しかし、神様に対してはどうでしょうか。神様は御子を犠牲としてささげることによって、その愛を証明してくださったことを忘れてはなりません。

神様の定められた什一献金のすばらしさは、私たちが痛みを覚えることにあります。もし、痛みを覚えなければ、誰でも喜んでささげることでしょう。しかし、欲深い人間は10%に対しても、大きなチャレンジ、痛みを覚えるのです。このチャレンジの中で惜しみながらではなく、喜んでささげられる時に、自分が口先だけでなく、心から神様を愛していることを知ることができるのです。もちろん、神様はあなたの生活を破綻させてまでささげなさいとは言われません。しかし、神様を一番にするときに、必ず必要を満たすという約束をしてくださっているのです。ささげもののチャレンジを試さない人は、一生この約束を体験することはできません。自分で自分の生活の安全を確保しながら、余ったもので神様にささげるような生活をしてしまうと、神様からの「あふれるばかり」の祝福を受けそこなってしまうのです。

【祈り】
《マタイ6章》
24だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

ライフチャーチ牧師 大谷 信道


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