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2014年10月30日(木)
2コリント 10:9-11
9私は手紙であなたがたをおどしているかのように見られたくありません。10彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会った場合の彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。」11そういう人はよく承知しておきなさい。離れているときに書く手紙のことばがそうなら、いっしょにいるときの行動もそのとおりです。
【ポイント】
①パウロの実際の姿
「パウロとテクラの行伝」という外典(聖書とは認められていなかったが、初代教会で広く読まれていたと思われる書物)には、パウロの容姿について次のような記述があります。「小柄で、頭ははげ、足も曲がり、体はずんぐり、眉は連続、かぎ鼻で・・・」
今日の箇所と合わせ、パウロはその容姿からは威厳や霊的なカリスマを感じさせるような雰囲気、反対者たちを圧倒するような存在感を持っているような人物ではなかったと推測できます。皆さんがお持ちのパウロのイメージとはずいぶんと違うのではないでしょうか。しかし、少なくとも初代教会の間では、このようなイメージが受け入れられていたと思われます。そもそも、パウロの容姿から威厳やカリスマ性が溢れていたとしたら、パウロ自身10節にあるような反対者の声を、わざわざ取り上げる必要もなかったはずです。
イエス様についても、同じことが言えます。イザヤ53章2節の預言には「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」とあります。イエス様、パウロの容姿が悪かったという事を受け入れることに抵抗を覚える人はいないでしょうか。しかし、イエス様もパウロもアイドルではないのです。ちなみに、アイドルという英語は、偶像という意味もあります。自分の理想の姿をイエス様やパウロに投影することは、大変危険な行為なのです。
②パウロの苦労を知る
パウロのコリント教会との関わりは本当に大変だったと思います。パウロが伝えている福音、キリストの教えという本質的な部分ではなく、パウロの容姿、態度、話し方という全く本質的でない部分まで批判されながら、それでもコリントの教会を導く責任を放棄していないのです。パウロを好き勝手に批判している人たちは、パウロがどれほど心を痛め、悲しんでいるのかを知らなかったことでしょう。私も含め、現代の多くの牧師は、このような批判をする人たちがいる教会、そのような行為がいけないことだと知りながら、それを行っている人たちに毅然とした態度で注意することができないような教会に長く関わり続けるタフさを持っていないのではないかと思ってしまいます。コリントの教会の様子を知っている人は、パウロが働きを断念し、逃げ出したとしても、誰もパウロを非難することもなかったことでしょう。ここに、パウロの召しが本当にキリストからのものであることを知ることができ、彼が使徒としての権威が与えられていることを見ることができるのです。自分の思いによってではなく、キリストの召しに従っている姿を見ることができるからです。
【祈り】
《コロサイ4章》
4また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。
アーメン
ライフチャーチ牧師 大谷 信道