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2015年1月7日(水)
【通読】
ガラテヤ 4:27-31
27すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子ど
もは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」28兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。29しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。30しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはなら
ない。」31こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。
①私たちは「イサク」
パウロは創世紀21章に記されているイサクとイシマエルの出来事と、キリストを信じることによって「御霊によって生まれたもの」とされた私たちと、罪の奴隷の状態を続けようとする律法主義者との類似点を説明しています。ポイントは昨日と同じです。それは、私たちは人間的な努力、功徳を積むことによって、神様の正しさに到達することはできないということです。
②律法主義の影響はクリスチャンになった後に出る
「律法主義」の問題は信仰と恵みにより救われるというキリストの福音を間違ったものにしてしまうところにあります。ですから、律法主義の問題は人を救いから遠ざけてしまうところにあると感じている人が多くいるかもしれません。しかし、律法主義の一番の問題は、すでにイエス・キリストを信じ、救われた人に救いの確信を失わせるところにあります。「より信仰的なクリスチャンになるためには〇〇をしなければならない」「あなたの信仰は◯◯をしないところに問題がある」というような思いを、クリスチャンに起こさせるのです。この恐怖感、不安感を植え付けられてしまった人は、良いクリスチャンになるため、神様にもっと喜ばれるためには行いを積み重ねるしかないと思いこむようになってしまうのです。
「あなたの信仰生活はどうですか?」と聞かれる時、健全な歩みをしている人は神様に、イエス様との個人的な愛の関わりをしっかりを持つことができているのかを考えます。しかし、律法主義に陥ってしまっている人は、自分の祈る時間の長さ、聖書を読む量、伝道に用いている時間、教会での奉仕量などについて考えてしまうのです。そして、実際の自分が、理想的なクリスチャン像と違っていると、自分は落伍者であるかのような感覚に襲われてしまうのです。
しかし、私たちの信仰生活において一番大切なことは、神様の愛と赦しの中に身を委ねて生きているのかどうかという点なのです。「行い」は愛に動かされた後の結果であって、それ自体が目的ではないのです。いろいろな形で忍び寄ってくる律法主義的な教えのために、自分がだめクリスチャンであると感じ苦しんでいるクリスチャン、または、落伍者にならないために必死に「行い」を続けているクリスチャンがクリスチャンがなんと多くいることでしょう。
【日曜礼拝の中心聖句】
ヨハネ13:1
1さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
【今週の適用と実践】
①自分の愛情不足を理解する
②私たちが本当に必要としているのは神様の愛であることを知る
③愛は概念ではなく、実質を伴うものであることを知る
④キリストの愛を頭で理解するのではなく、心に受け取る
【今週の祈り】
「主よ、私はあなたの愛が必要です。あなたの愛を頭で理解するだけでなく、あなたの愛を心に受け取る者として下さい。」
ライフチャーチ牧師 大谷信道