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2013年4月9日(火)
ヘブル人への手紙 4:3-5
3信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。4というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。5そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息に入らせない」と言われたのです。
【ポイント】
エジプトから救い出されたイスラエルの民は、すぐにモーセ、アロンに不平不満をぶつけるようになります。民数記14章を見てみましょう。[2イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。3なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
4そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」]
そして、モーセとアロンを殺してしまおうと話しあい始めます。そこで神様はこのように言われます。「11この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。」さらに、「29この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。30ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。」と言われたのです。
旧約聖書のに記録されている出来事の問題は、イスラエルの民が律法を犯したことではありません。「11この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。」とある通り、イスラエルの民に「不信仰」によるものです。神様がエジプトの奴隷の状態から救い出し、約束の地に必ず導かれるという約束を信じ続けることができなかったことにあるのです。私たちは、神様の約束が実現されたという結末を知っています。ですから、なぜイスラエルの民が不信仰に陥る姿を見て、愚かに感じるかもしれません。しかし、彼らの姿は決して他人ごとではありません。私たちもイスラエルの民と同じ罪の性質を持っているからです。「天国」「永遠のいのち」「永遠の安息」の約束が与えられ、イエス・キリストの復活の目撃証言を聞きながら、目の前の困難さ、不満を教会のリーダーにぶつけたり、神様につぶやいたりする可能性があるということです。まして、愚かなイスラエルの民の失敗を知っている私たちは、同じ過ちを犯してはならないのです。
私たちの求められていることは、神様の約束を信じ続けることです。神様が自分の言うことを聞いてくれること、具体的な望みを叶えてくれることを信じるのではありません。どのような状況にあっても、神様の愛、あわれみ、赦しを信じ続けることです。戦争が起ころうが、飢饉がおころうが、神なんていないのではないかと思えるどのような出来事が起ころうが、最後の最後までキリストを信頼し続けることが求められているのです。神様は約束を変えたり、反故にすることは絶対にないからです。
【祈り】
《イザヤ40章》
8「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
アーメン
大谷 信道